ことのはカフェ

カフェに纏わる由なしごとをそこはかとなく綴ります。

ティピカちゃんねる 1

皆様、ごきげんよう。私の名前はティピカと申します。人間と暮らして10年以上が経ち、今ではどうにか人の言葉も理解できるようになりました。

相棒のふとした気紛れで、住み慣れた土地から
蕎麦の名産地である、この町に移り住むようになりました。私の相棒のジュンコは、この町で私と同じ名前の喫茶店を営んでおります。

この町に住むまでジュンコは毎朝、地下鉄で会社に通っていましたが、今は喫茶店の2階が私たちの住居になっています。そのためか、この町に来てから私の朝食は、わずかばかり豊かになったように思えます。きょうは初がつおの粗く刻んだものが添えられていて、春の訪れを感じました。

それに、以前よりもよく話すようになりました。ただ、こちらの言っていることをむこうがどれほど理解しているのかは、甚だ疑問に思うところではありますが。我々が人間の言葉を理解するように、人間も猫の言葉を理解したならば、人間の心にもっと余裕がうまれるのではないか、という気がするのは私だけではないようです。

足音が聞こえて来ます。あれはお蕎麦屋さんの奥さんです。いつも私の好きな煮干しや鰹の匂いを奥ゆかしく、身に纏っているお洒落さんなのです。おはようを言いに行きましょう。

ジュンコ、お蕎麦屋さんの奥さんが来るよ。早く降りて鍵を開けようよ。
『なぁに? ティピカ、かつおのおかわりが欲しいの? 美味しかったのね。残念だけど、また買いに行かないとないのよ』
違うよ。かつおはおいしかったけど、僕は高校生の男の子じゃないよ。そんなにたくさんは食べないよ。
『はいはい、ごめんね。また買ってあげるからね』
と、こんなこともあるのですね。

ジュンコは髪のお団子の位置が気に入らないらしく、何度もやりなおしています。仕方がないから先に降りていましょう。

奥さんはもう、店の前に立っています。もう少し待っていてくださいね。私に気づくと
身をかがめて
『ティピちゃん、おはようさん。きょうも男前だねぇ』
と、嬉しいことを言ってくれます。奥さんもきょうも素敵ですよ。ジュンコはもうすぐ降りてきますから、もう少しお待ちくださいね。

階段を降りながら、ジュンコはようやく奥さんに気づいたようで
『あら、おばさん早いのね。どうしたのかしら?』

ようやく、鍵が開いて私は奥さんと存分に朝の挨拶ができます。きょうも芳しいですね。
『ジュンちゃん、開店前なのに悪いわね。うちのひとが、山菜採りに出かけるのに、いつもより早く起きたのよ』

奥さんがいつもの席に座ったので、私は奥さんの隣の椅子に座ることにします。ジュンコがゆっくりと、コーヒー豆を挽き始めます。私はこの音がとても好きなのです。この音を聞きたくて店に
ついてくるうちに、お客さんたちとも自然とお馴染みになりました。

『あら、ジュンちゃん、ティピちゃんのしっぽがミルの音に合わせてリズムを取っているみたいよ』
さすがは奥さん! よくわかってくれています。お礼に私のゴロゴロを、お聴きください。
『そうなの。電動のミルの方が早いけど、この子、昔からこの音が好きなものだから聴かせてあげたくて』
ジュンコがそんなふうに思っていたとは、初めて知りました。

『うちのひとったら、たまの休みぐらいゆっくりするといいのに、山菜採りの後は焼き物の職人さんのところに行くんだって。つゆをもっと引き立てる蕎麦猪口を作りたいって』
『おじさん、本当にお店のことが1番なのよね。山菜採りだって、お客さんに食べてもらいたいからでしょ? 頭が下がるわ』
『じっとしていられないなんて、マグロみたいだね。まぁ、元気だから動き回れるということかね。ねぇ、ティピちゃん』

今の奥さんの言葉は、私の耳にはそんなおじさんのことがとても好きなのだと聞こえましたよ。おじさんは若い頃に友達とバイクでこの町に遊びに来て、偶然立ち寄った蕎麦屋の味と一人娘に惚れ込んで婿入りしたのだと、お客さんから聞いたことがあります。

ジュンコがこの町に住むことになったのも、汽車の窓から見た蕎麦の畑に咲いている蕎麦の花に心惹かれたからのようです。どこに住もうとジュンコが幸せなら、私も嬉しいのです。

いつもは深煎りモカを1杯飲んで、お店に戻ってしまう奥さんですが、きょうはお店がお休みなので、ゆっくりと2杯目を楽しんでくれています。口数の少なかったジュンコが、この町に来てからは楽しそうに話をするようになったのは、奥さんのおかげもあると私は思っています。

ジュンコの相手は暫くのあいだ奥さんにおまかせして、私はちょっとだけ寝ることにしましょう。

シュンスケくん 4

マスターのお姉さんが、俺たちのケーキを運んできてくれた。そして、アサミ先輩の爪の桜を褒めた。先輩はいつものほんわかした表情に戻っていて
『お姉さんも、やったら? 絶対、似合うと思うよ』
と言った。お姉さんも嬉しそうに
『あら、そうかしら? こんな、おばあちゃんでも?』
と返していた。


先輩が厳しい表情で語ったのは、小学校の1年生だった頃、同じクラスにいた『ヒデくん』のことだった。ヒデくんは言葉が遅かったが、絵を描くのがとても好きで、いつもスケッチブックにたくさんの動物たちや花を描いて、それをにこにこしながら見せてくれたのだそうだ。

ある日の図画の授業のことだった。ヒデくんの絵を見た担任の先生が大きな声で言った。
『どうして、馬がこんな色なんだ? こんな馬、いるわけないだろう? それに、この花! 花に顔なんかあるわけないだろう? ふざけないで、まじめに描きなさい! さあ、もう1枚紙をあげるから、これに描き直して』
先生はヒデくんの絵を取り上げるとそれを破いてしまった。ヒデくんは何も言えずにただ、うつむいていたそうだ。

そのとき以来、ヒデくんは図画の授業がある日には学校を休んだり、保健室に行くようになってしまったという。それから少し経って、ヒデくんはお父さんの仕事の都合で転校したとの事だ。


『馬がピンク色だっていいよね? 私、ヒデくんには、きっと、お花たちの楽しいおしゃべりが聞こえていたと思うんだ。本物にそっくりに描けば、それが正解だなんてつまらないよね? 私なら、そんな絵は描きたくないな。あのときに先生はヒデくんの絵を描く楽しさをこわしてしまったと思うんだよ』

そう言いながら、アサミ先輩はタルトの上の苺を4個立て続けに、フォークで口に運んだ。目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
『ごめん、ごめん。ちょっと感情的な言い方しちゃったね。でもね、そのことがあってからさ、私、子どもたちが楽しく絵を描くのに寄りそえるような仕事がしたいな、って思うようになったんだ』

俺は苺タルトの、苺が食べられてクリームだけになったところを見ていた。クリームには苺の跡がくっきりと、残っていた。そのときの先生がしたことも先輩の記憶の中に、こんな風に痕を残したのだろうか。

部長のリサ先輩が目当てで、美術部に入ったケイタなんかは、よく
『アサミちゃんは天然ちゃんだよなー』
などと言っている。俺も正直、そう思っていたことがある。初めて会ったとき、アサミ先輩はリョウ先輩と一緒に、机に座ってポテトチップスの袋を抱えながら食べていた。俺が入部してからずっと、そんな調子だった。それから、1週間ほどしてようやく絵の道具の用意をし出した。

『ポテチのねーさん、どんな絵を描くのかな?』そう思ってキャンバスを覗くと、そこにはじゃれ合う3匹の子猫たちが描かれていた。それを見た途端に、たまらなく懐かしいような、優しい気持ちがこみ上げてきた。すごい絵だな。何なんだ、この人は? そのときから、俺のアサミ先輩を見る目は変わった。リサ先輩目当てで集まった絵の描き方も知らないやつらにも、画材の使い方なんかをていねいに教えてやっていた。この人、意外といいやつかも。

ヒデくんのことを聞いて、先輩の絵からにじみ出る『なにか』の手がかりが少しだけ見えたような気がする。先輩が子どもたちと楽しそうに絵を描く姿が、目に浮かんだ。その隣には、俺もいるだろうか? そうだといいな。

コーヒーを飲み終えた年配の2人連れが、立ち上がった。そして、窓の外のクレヨンを見つけて
『あら、お父さん、チャッピーが来てるわよ』
『ああ、チャッピー、元気そうだな』
と話していた。

クレヨン、おまえには一体いくつ名前がある?

シュンスケくん 3

新聞を読んでいたサラリーマンの人たちが帰ってしまうと、お客さんは俺たちの他にはマスターよりも、かなり年上に見えるご夫婦らしい2人だけになっていた。オルゴールのBGMが似合う人たちだな、と思う。

マスターがアサミ先輩を冗談とも本気とも取れるように『スカウト』してくれたおかげで、俺は話が切り出しやすくなった。
『先輩は大学、どうするの? 美大?』
俺と同じデッサン教室に来ている学生はリョウ先輩も含めて、みんな美大志望だった。
『いやー、美大は受けないかな』
『意外だな。俺、先輩は絵を極めていくのかと思っていた』
『絵はね、ずっと描いていようと思っているよ。だけどね、極められるようなものじゃないよね。楽しく描けたら、それでいいかな。シュンスケは? 美大受けるんだよね?』
『はい、そのつもりです』

美大を受けるのは、絵を本格的に描きたいと思ったからだった。俺が絵を描き始めたのは子どもの頃、近所に住んでいたペンキ職人の叔父さんの影響だった。叔父さんはいつでも、落語のテープを鳴らしながら庭で仕事をしていた。俺が遊びに行くと、俺の背よりも大きな板と余ったペンキを出して『好きなように塗っていいぞ』と言ってくれた。それが楽しくて仕方がなかった。

だけど、今回の美術展でもらったガラス製のメダルを見て、こんなに繊細な表現の方法もあるのだということを知らされた。ガラス工芸の世界への興味がどんどん膨らんできた。普段、俺が描く絵とは全く違うから、戸惑っている。ガラス工芸を勉強するなら、志望校を変えなければならないだろう。こんな場合に、アサミ先輩だったらどう考えるかを聞いてみたかったのだ。

先輩は黙って、俺の話を聞いていてくれた。そして、こう言った。
『板に描いても、ガラスに彫っても、シュンスケの絵であることには変わりないよぉ。叔父さんが言ったみたいに、好きなようにしてたら、きっといいものができるよ』
『そういうものなのかな?』
『と、私は思ってるよ。楽しいというのがいちばんだと思うな。難しく考えなくても。それに、ガラスのことは学校じゃなくても、覚えられるよね?』

先輩の言うのを聞いて、俺は力が抜けた気がした。窓の外では、クレヨンがあくびをしている。力が抜けたら、少しおなかが空いた。
『チーズケーキ、おかわりしようかな』
『少食のシュンスケが、めずらしいね。じゃあ、私は苺タルトにしよう』

ケーキが来るのを待ちながら、先輩がポツリとこんな話を始めた。
『小学校の頃、学校に絵を描く楽しさを潰されちゃった子がいたんだよ。もう、ずっと会ってないけど、今、どうしているかな?』

いつもは、ほんわかとしているアサミ先輩の厳しい表情を俺はそのとき、初めて見た。窓の外のクレヨンは先輩の横顔をじっと見ていた。

シュンスケくん 2

マスターはアサミ先輩に『やっぱり、ブルーベリーよりも苺の方が合うだろうか?』などと相談していた。アサミ先輩は『このスコーンの色と形なら、苺の方がかわいいと思うなぁ』と、答えていた。

マスターはメモを取りながら、聞いていた。そして、窓の外の猫に気づいた。
『あ、マメタロウだ。きょうは遅かったな。いつもは開店前に来るんだよ』
『あの猫、マメタロウっていう名前なんですね』
『いや、俺が勝手にそう呼んでいるだけ。床屋の父さんはアフロって呼ぶし、花屋の姉さんはコブシちゃんだし、この間はサユリって呼んでる人もいたなぁ。だけど、あいつはえらいよね。誰がどう呼ぼうが、自分のペースをくずさないでいられるから』

マメタロウ、アフロ、コブシちゃん、サユリ、マスターの話しぶりだと、まだまだ他にも名前がありそうだ。俺はずいぶん前に叔父さんと一緒に聴きに言った落語の『寿限無』のことを思い出していた。マスターは『マメタロウ』にごはんをあげに外に出て行った。

『先輩、俺たちもあの猫に名前をつけようよ』俺たちの『たち』に少しだけ、力が入ってしまって、自分でも驚いた。アサミ先輩は特に気にする風もなく
『そうだねぇ、何がいいかねぇ? まぁるいお顔のにゃんこだね』
と言って、猫を眺めた。
焦げ茶色の中に、細かい黒の斑がある複雑な模様をした猫だ。全体的にごちゃごちゃした柄だったが、しっぽの先だけが白くて、白い色鉛筆みたいだった。そのことを言うと先輩は
『エンピツちゃん、何かちがうなぁ。モクタン、ネリケシ…もっとちがうなぁ。うーん…』
と考え始めた。俺も
パステル、チョーク、エアブラシ。何か、画材の名前ばっかり浮かんじゃいますね』

アサミ先輩は気を取り直すように、水の入ったグラスに口をつけた。
『あ、そうだ。クレヨンは?』
『クレヨン、いいかも。パステルじゃ、ちょっとあの丸顔には合わないですよね』
『じゃあ、クレヨンに決定だね』
俺たちの間に、合言葉ができた気がした。

2人で窓の外をのぞくと、クレヨンはマスターからもらったごはんの皿をすっかり空にして、丸くなって寝ていた。
『クレヨン、丸くなってるとチョコドーナツみたい』と先輩が笑う。
『チョコと言えば、このあいだくれたチョコ、めちゃくちゃうまかったです』
『あ、ホント? よかった』

バレンタインの日、アサミ先輩は部活が終わった後で、部員全員に手作りのチョコを配ってくれた。中にはひとりずつにメッセージカードが入っていて、俺のには『いつも、部室の机をきれいに並べておいてくれてありがとう』と書かれていた。みんなが集まる前にしていることだし、誰にも知られていないと思っていたけど、先輩は気付いていたらしい。

クラスの女の子3人からもチョコはもらったけれど、先輩からもらえたことがいちばん嬉しかった。まあ俺にだけ、くれたわけではないけど。

『あんなにうまいチョコが作れるなら、先輩、プロになれると思うな』
『おおげさだよぉ。でも、気に入ってもらえたなら、嬉しいよ。ありがとうね』
『いや、アサミちゃんには確かにお菓子づくりの素質があるぞ。このあいだ、俺にくれたクッキーも美味しかったよ。どうだ、卒業したら家で働かないか?』
マスターが、いつの間にか話に入ってくる。

『やっぱり俺にだけ、というわけじゃないんだよなぁ、アサミ先輩は』俺は窓の外で毛づくろいを始めたクレヨンにそっと、心の中で話しかけた。

シュンスケくん 1

アサミ先輩は店の前の食品サンプルが飾られているガラスケースの前にしゃがんで、猫を撫でていた。俺に気づくと、大きく手を振る。
『すみません。遅くなっちゃって』
『だいじょうぶだよー。まだ5分しか過ぎてないし。この子と遊んでたから平気だよ。じゃあね、にゃんこ。気をつけて、帰るんだよ』
今度は猫に、小さく手を振る。

連れだって店に入る。ここは通い始めたデッサン教室の近くの喫茶店だ。昭和時代から続いていて、レトロな雰囲気が漂っている。

アサミ先輩は店の女の人とお馴染みらしく『きょうは入試で学校は休みだよ』などと気軽に言葉を交わしている。俺たちは窓側のテーブルに座った。さっきの猫がまだ、ガラスケースのそばに座っている。アサミ先輩はメニューをパラパラとめくっている。爪には桜の絵が描かれている。
『先輩、その桜、自分で描いた?』
『あー、これはドラッグストアで売ってた爪用のシールだよ。サクラサク、受験生たち頑張れ! なんてね』と言って、笑う。
この人のこういうところに、何となく『高評価ボタン』を押したくなる。
『何にする? パスタも色々あるよ』
『俺、えびグラタンにします』

平日の昼間なので、まわりはほとんど新聞を読んでいるサラリーマンの人たちだった。静かな店の中にはオルゴールのBGMが流れていた。

えびグラタンが2つ運ばれてきた。
『わー、おいしそう。さあ、食べよう』
アサミ先輩は、本当においしそうに食べる。俺はふだんはあまり食べないけれど、つい、つられてグラタンを完食した。

『そうだ、先輩。俺、きょうはこれを見てもらいたくて』
秋にあった高校美術部の展覧会に、俺はクレヨンでほぼ等身大の鹿の絵を描いた。それで、市長の特別賞をもらった。そのときのガラスでできたメダルが、きれいだったので持ってきたのだ。

『いいの? 持たせてもらっても』
アサミ先輩はやわらかい子猫に触れるときのように、そっと手を伸ばした。
『きれいだね、このぶどうの模様。ちょっと、アールヌーボーっぽいよね。よかったねぇ。シュンスケ』
と、にこにこしている。持ってきてよかった。
『先輩が、俺にクレヨンをすすめてくれたから、この賞、もらえたし』
『いやぁ、シュンスケのチカラでしょう。楽しみながら描いたのが観てるだけでもわかるよ』

追加注文した紅茶が2つ運ばれてきた。お店の女の人が丸いお菓子が2つ載った皿を俺たちの間に置いた。
『あれ? これ頼んでないけど…』
『これね、スコーンの試作品なの。感想を聞かせてくれたら嬉しいな』

グラタンを完食できただけでも珍しいのに、デザートのお菓子まで食べている。アサミ先輩といると、食事が楽しいようだ。


『アサミちゃん、スコーンはどうだったかな?』
白髪混じりの髭をはやした男の人が、にこやかに話しかけてきた。
『あ、マスターこんにちは。このスコーン、絶対メニューにのせてほしいです。苺ジャムもあると嬉しいかも』
マスターはちょっと驚いた顔をして
『きのう、リョウくんにも試食してもらったら、同じことを言っていたよ』
と言った。リョウ先輩とはさっきまでデッサン教室で一緒だった。だけど、この後でアサミ先輩に会うことは何となく言えなかった。窓の外を見ると、猫はまだいた。目があった。猫は俺の心の中を見透かすように、じっと俺を見ていた。

栞さんのボンボニエール 6

お仕事の帰りに寄ってくださったお客さんをお見送りして、一段落。そろそろ閉店の時間だ。
きょうは朝から忙しかった。朝1番に、店の電話が鳴る。チサトさんからだった。前に話していたかぎしっぽの猫ちゃんを保護したという。

すぐに携帯に動画が送られてきたが開店準備の途中だったので、ついそのままになっていた。
いつもならランチタイムが過ぎると一息つく時間があるのだけれど、きょうはそれもままならなかった。

食器の片づけは後にして、まずは動画を見てみようか。カフェオレ色の帽子とジャケットを羽織ったような模様の白い猫ちゃんだ。そして、同じカフェオレ色のかぎしっぽ。

文房具屋さんのマサヨさんに頼まれていた話だけれど、このカフェオレ色を見ていたら、うちの看板猫にしたいぐらいだ。誘惑に負けないで、ちゃんと連絡しないとね。

マサヨさんのお店は結構、夜遅くまで営業している。夜に文房具を買いにくる人が、そんなにいるのかと思うけれど、会社帰りのサラリーマンの人がブラブラと見に来て万年筆などを買って行くこともあるという。時には、小学校の頃に買って貰えなかったキャラクターの文具や仕掛けのたくさんついた筆箱を買って帰る人もいるようだ。

お店の2階が住居になっているので、遅くまで開けていても負担にはならないようだ。お客さんがいない時はラジオを点けている。

電話をすると、息子さんに店番を頼んですぐに行く、という返事だった。受話器からラジオの音が聞こえてくる。

マサヨさんがお店用のエプロンにダウンジャケットを羽織った恰好で入ってきた。ご近所同士の気楽さだ。
栞ちゃん、お疲れさま。そこで、ちょうど焼き芋屋さんにあったの。ひとつずつ買ってきちゃった』
と、ポケットから紙袋に入ったお芋を差し出す。

閉店後の喫茶店でおばさん2人が、焼き芋を囓りながら猫ちゃんの動画に見入っている。長閑だなぁ。昼間の忙しさが嘘みたい。

『ほら、この子。カフェオレみたいな色の模様の。しっぽが、見えるかしら? あ、見えた。ちょっと待って』
かぎしっぽがしっかりと見えるタイミングで動画を止める。
『うーん、ほれぼれする見事なかぎしっぽよのう。余は満足じゃ』
『でしょう? この頭の斑も帽子みたいで可愛いし』

すっかり気に入ってくれたみたい。あとは猫ちゃんの気持ち次第だ。あした早速チサトさんに連絡してみよう。

焼き芋で空腹を免れたので、コーヒーを淹れよう。マサヨさんはいつもミルク多めのブラジルだ。きょうは私も同じものにしよう。ミルクたっぷりのコーヒーはかぎしっぽ猫ちゃんの模様と同じ色になった。

コーヒーと一緒に、いつものボンボニエールを真ん中に。きょうの中身はピスタチオのチョコだ。
『いつも思うけどこの容器、素敵よね』
『子どもの頃に祖母にもらったの。もう40年近い付き合いになるわ』
栞ちゃんって、おばあちゃん子なのね。私もそうなの。私がかぎしっぽの猫を探していた訳も、祖母に関係しているのよ』
『その話、聞きたいな』

マサヨさんはチョコを食べる手を止めて、話し始めた。今の文房具屋さんはマサヨさんのおばあさんが始めたそうだ。ある日、女子学生が作家を目指す弟に最高の万年筆を贈りたいが、どうしても都合がつかないという。おばあさんは毎月少しずつ支払ってくれればよい、とそのお嬢さんに万年筆を渡した。それからお嬢さんは毎月必ず、少しずつでも支払いに通い続けた。2年目が過ぎたある月から、お嬢さんはぱったりと来なくなってしまったそうだ。おばあさんは心配しつつも、何か事情があるのだろうと思っていた。次の月、いつもお嬢さんが来ていた頃にかぎしっぽの白い猫が店の前に現れた。

おばあさんは野良猫だと思い、煮干しを食べさせた。猫は次の月も、そのまた次の月もやってきて、煮干しを食べて帰った。そして、段々と居つくようになった。

幼かったマサヨさんは猫のしっぽが曲がっているのが不思議だったという。
『これは、かぎしっぽと言ってね、しあわせをかき寄せてくれると言われているのよ』
おばあさんの言葉どおり、かぎしっぽの猫が来てからはお店のまわりに会社や学校ができて、お客さんが次第に増えていったのだそうだ。

『不思議なお話ね。かぎしっぽ猫ちゃんのおかげなのかしら?』
『祖母は、ずっとそう思っていたわ。祖母は今、施設に住んでいるけれど最近、記憶がおぼろげになってきてね。私のこともわからないことがあるの。かぎしっぽの猫に会わせたら、何かよい影響があるかもしれないと思ってね』

そういう事情だったのね。早く、おばあさんに猫ちゃんを会わせてあげたいな。チサトさんに頼めば、どうにかなるだろう。

作家を目指した弟さんと、そのお姉さんは今ごろどうしているのだろうか。いつか、このカフェオレ色のかぎしっぽ猫ちゃんが教えてくれるかもしれない。そう思いながら、冷めたミルクたっぷりのコーヒーを飲んだ。

イネコさん 4

ティピカさんはお父さんの膝の上で、すっかりと寛いでいた。ときどき喉をゴロゴロと鳴らしている。お父さんはブルーマウンテンを2杯飲み終えると、腕時計に目をやって
『今からゆっくり歩いて行ったら、次の汽車に乗れそうだな』
とつぶやいた。

ママがカウンターから出て、ティピカさんをお父さんの膝の上から抱き上げる。ティピカさんは、ちょっと厭そうに低い声で『ニャー』と言ったが、ママの腕におとなしくおさまった。しっぽが物言いたげに揺れている。

『ティピカ、今度はティアラも連れてくるからな』
そう言うと、お父さんは身につけてきたカシミアのマフラーをティピカさんにふわりと被せて
『きょうはおまえには、おみやげがなかったからな。かわりにこれをやるよ』

それを見たママはカウンターの後ろの休憩室に入って行くと女性用のマフラーを持ってきて、お父さんの首にかけた。
『風邪ひかれたら、かなわないわ。これあげるから、巻いていって』
『おいおい、これを俺がするのか?』
マフラーは猫の顔の形のモチーフをつなぎ合わせたものだった。
『そうよ。いいじゃない、猫のモチーフが素敵でしょ? 今、女性に人気のタケオ先生の新作よ。限定品だったのよ』
『いや、そういう問題じゃ…』
『つべこべ言わないの。老いては子にしたがえって言うでしょ』

普段はアルトの声で、ゆったりと話すママがぽんぽんと言葉を投げかけている。お父さんは私の方を見て、肩をすくめた。
『じゃあ、ユキエお姉さんによろしく。梅酒のおかわり送って欲しいって伝えておいてね』

閉じたドアのベルがカラカラと鳴っている。
『ネコちゃん、お騒がせしてごめんなさいね』
ママはいつもの口調に戻っていた。ティピカさんはお父さんのマフラーの上で、ぐっすり眠っている。

最初お父さんを紹介された時、一瞬の間が空いたことが少しだけ、気になっていた。この店に通い始めて10年ちかく経つけれど、ママはあまり自分の話はしない。

ママはある日、ふらりとこの町に現れて、ふと気がつくと、この喫茶店もできていた。ここは元は空き家だった。都会から自給自足生活に憧れてやって来た若い夫婦が2年程、暮らしていたけれど、理想と現実の違いを目の当たりにして、また都会に帰っていった。

口数は決して多くはないのだけれど、いつの間にかママはこの町に馴染んでいた。ママが淡々と淹れるコーヒーが、その人柄を雄弁に物語っているのかもしれない。

『ブルーマウンテンのおかわりをください』
温泉まんじゅうのおかわりも、ご一緒にいかがですか?』
『喜んで!』
ママはブルーマウンテンを静かに挽きはじめた。
目を覚ましたティピカさんが、ゆったりと伸びをして、高そうなカシミアのマフラーにしっかりと爪を立てた。