皆様、ごきげんよう。ティピカです。先日、催事の準備にこの町に来た百貨店バイヤーの『ちょい悪おやじ殿』は、このところ毎週のようにコーヒーを飲みに来ます。
お仕事のついでとは言え、車でだってかなり時間がかかるところをありがとうございます。無愛想なジュンコに代わって、御礼を申し上げます。
カラン、コロンとドアベルが鳴って、常連さんのルリコさんが姿を見せます。
『あら、トオルちゃんじゃないの。おつかれさま』
ルリコさんはこの町に移住する前は、百貨店で働いていました。この店で顔をあわせて、業界の『あるある話』で盛り上がって以来、2人は『ルリコ姉さん、トオルちゃん』と呼び合うまでになりました。私も『トオルちゃん』という響きがとても気に入りましたので、そう呼ばせて頂くことにしましたよ。
ルリコさんはいつもの席へ。そして文庫本を出して、定番のマドレーヌとコーヒーのセットを注文します。
『ルリコ姉さん、いつもマドレーヌですね』
『1番好きだった彼との思い出のお菓子なのよ』
ルリコさんは、そう言って悪戯っぽく微笑みました。
『是非そのお話、伺いたいですね』
『いつかね』
『ジュンコさん、トオルちゃんにもマドレーヌ、私から』
ジュンコが貝の形のマドレーヌを金の縁がついた小さなお皿に載せて、トオルちゃんに。
『いただきます』
見た目は『ちょい悪』なのですが、きちんとした人なのですよね。
『発酵バター、ですね。やっぱり風味がいいですね』
『トオルちゃん、ここのマドレーヌはジュンコさんの手作りで、1日に12個が限度だから百貨店には出品できないわよ』
『あ、俺の心の声が聞こえたようですね。残念だなぁ。フランスで食べたマドレーヌを思い出させるような味なのに』
おや、ずいぶんな褒め言葉をいただきましたね。ジュンコはまだ、フランスに行ったことはないのですけれどね。
『ジュンコさん、キリマンジャロのおかわりをください』
ジュンコが静かに豆を挽き始めます。音につられて私の尻尾もゆらゆらと動きます。
『ティピカ、君はなかなかリズム感がいいんだな』
『ニャー』どうです? トオルちゃん、一緒に踊りますか?
『キリマンジャロ、お待たせしました』
『ありがとうございます』
『そうですね。だけど、俺の場合は恋人との思い出じゃないですよ』
『じゃないけど…?』
と、ルリコさんが促します。
『俺が新入社員のとき、会議に使うお弁当の手配をまかされたんです』
トオルちゃんは大いにはりきって、あちこちのお弁当を食べくらべた中から、年老いたご夫婦が営んでいる小さなお弁当屋さんに依頼することに決めました。その時に、うっかりゼロをひとつ多く入力したファックスを送信してしてしまいました。お店の奥さんが気づいて連絡してくれたので、大事にはならなかったそうです。
『奥さんが気づいてくれなかったら、ご夫婦は何百個というお弁当を余分に作らなければならなかったんです。青くなりましたよ』
キリマンジャロを大事そうに飲みながら、トオルちゃんは続けます。
『急いで謝りに行きました。そうすると、ご夫婦はにこにことして、コーヒーを淹れてくれたんです。その時の豆がキリマンジャロだったんですよ』
ご夫婦は孫のような齢のトオルちゃんにも丁寧に『大手の百貨店さんが、うちのような小さな店に注文してくださって嬉しかったですよ』と言い、仕事の合間に2人でキリマンジャロを飲むのが楽しみなのだと笑っていました。トオルちゃんはすっかりお店のファンになって、よく通うようになりました。ご夫婦もトオルちゃんを可愛がり、よく3人でコーヒーを飲んだそうです。
若き日の失敗談、誰にでもあるものなのですねえ。トオルちゃんの話をしみじみと聞いていたルリコさんが私の頭の中を見透かしたように、ニヤリとして私の方を見ました。
『ねえ、ティピカ』
私の話はいいでしょう。まったく、ルリコさんにはかないませんねえ。私はちょっとだけ寝ることにしましょう。