ことのはカフェ

カフェに纏わる由なしごとをそこはかとなく綴ります。

栞さんのボンボニエール 8

ミユキさんはカウンターにずらりと並んだ箱を眺めて、溜息をついた。

『それにしても、この数は尋常じゃないわよね。よく、猫絡みのものをこれだけ集めたものだわ』

閉店時間後、食器を夏らしいものから、秋に似合うものに変更することに。この秋に使うお皿とランチタイム用の小鉢は決まった。あとはカップだ。食器が一部変わるだけでも、グッと秋の気配が増してくるものね。

 

カップ、どうしようか?』

『私、このシリーズが好きだわ。陶器のサビ猫ちゃんみたいな色合いの。この取っ手が猫ちゃんのしっぽみたいで可愛いし』

栞ちゃんって、ときどき家のママみたいなこと言うわね。そうなの。これ、サビ猫なのよ』

『え? ほんとにサビ猫ちゃんだったのね』

『これね、ママのところのサビ猫をイメージして作ったんですって。もう何年前のことかしら』

 

ミユキさんは使わない食器の箱を戸棚に片付けると、椅子にどっかり座りこんで言った。

栞ちゃんカップも決まった事だし、ひと息入れよう』

 

いつものジャムの空き瓶に、100円玉を2つ。そしてカウンターの抽斗から、いつものボンボニエールを。

『見て、可愛いでしょ? このチョコ、猫ちゃんの手の形なの』

『ホワイトチョコ、白猫ね』

『秋には白い食べ物を摂ると、体にいいって言うでしょ?』

『そういう意味じゃないでしょうよ』

と、笑いながらひとつ、口の中へ。

『ミユキさん、何がいい?』

『そうね、深煎りモカにしようかな』

きょうは、私も同じものにしよう。2人ぶんの豆を挽く。

 

『このサビ猫カップの作家さんね、ちょっと不思議な出会いなのよ…』

深煎りモカを飲みながら、ミユキさんは静かに話し始めた。

 

10年ほど前の春のまだ少しだけ肌寒い頃、マリコさんが『アネゴ』と呼ぶサビ猫を抱いて公園を散歩していた時のこと。学生風の女の子が、どんよりとした様子でベンチに座っていたそうだ。マリコさんはアネゴを抱いたまま、その隣に腰をおろした。

『さあ、アネゴ。おやつにしましょう』

そう言って、コートのポケットから煮干しを取り出して猫に与えた。女の子は少し、マリコさんとアネゴから離れた位置に、座り直した。アネゴは煮干しを食べてしまうと、マリコさんの膝の上でうとうとし始めた。

 

『さあ、私もおやつにしようっと。よろしかったら、ご一緒にいかが?』

いきなり、猫を連れた見知らぬおばさんに声をかけられた女の子は、きっとして

『私、猫じゃありません。煮干しなんて食べたくないわ』

と答えた。

 

『私が食べるのは、こっち』

と、マリコさんはもう片方のポケットから、小さな板チョコを取り出した。

『ベルギーのお土産なの。美味しいわよ』

物怖じしないマリコさんの様子に戸惑いながら、女の子は半分に折った板チョコを受け取って、食べ始めた。

『おいしい』

そう言って、ぽろぽろと涙をこぼした。

 

女の子はぽつり、ぽつりと話し始めた。美大の受験に3度失敗しているという。陶芸家を目指していて、自分の憧れの陶芸家と同じ大学で学びたい。だけど、3回目の失敗で、すっかり自信をなくしてしまったのだ、という話だ。

 

マリコさんは黙って聞いていた。その時、うとうとしていたアネゴが急にグッと身を起こして、女の子の方に場所を移した。そして、女の子の膝に両方の前足をのせて『ニャー』と鳴いた。

『あのー、この猫さん、何か言っているんでしょうか?』

 

マリコさんの通訳が始まる。

美大って、にゃーに?』

マリコさんはアネゴの頭をそっと、優しく撫でながら

『さあ、何かしらね』

と答えた。

またアネゴが話し出す。

『ニャニャニャー?』

『え? 美大と煮干しとどっちがおいしいか?』

女の子はアネゴの言葉に、笑いだした。

『あのね、猫さん。美大は食べ物じゃないのよ』

『ニャーン、ニャ』

 

マリコさんが時計に目をやる。

『アネゴ、そろそろ行きましょうか。あなたの好きなドラマ、始まるわよ』

マリコさんはアネゴを抱き上げると、煮干しの入っていたポケットからカイロを出して女の子に渡して言った。

『お邪魔しました。春と言っても、まだ寒いわね。風邪、ひかないでね』

 

マリコさんらしい話』

『でね、その後なのよ』

ミユキさんの話は続く。深煎りモカは大きなマグカップの半分になっていた。

『それから3年後ぐらいかしらね。ママの店に、この女の子が来たの』

知人が偶然、マリコさんのことを知っていて、ここまで辿り着いたのだそうだ。

 

 

女の子はマリコさんに

『いつかは、本当にありがとうございました』

と、小さな木の箱を差し出した。開けると中に、このサビ猫のようなカップが1客入っていた。

『私の初めての作品です』

 

公園でマリコさんとアネゴに出会った後、女の子は家に向かって歩き始めた。途中、ふと目に留まった1軒の喫茶店に立ち寄った。そこで出されたカップに一目惚れしたという。そこで、その陶芸家を紹介してもらい、弟子になったそうだ。

『アネゴちゃんの言葉に、背中を押してもらいました』

 

 

マリコさんが受け取ったサビ猫ちゃんカップの箱には『にぼし最強』と銘が記されていたという。

『え? じゃあ、このカップって、にぼし最強って名前なの?』

『そうみたい』

 

秋に向けて選んだ器たち。マリコさんと陶芸家さんの不思議な出会いに想いを馳せて、たいせつに扱わないとね。

 

トモヨさん 4

お店の奥の方を見て、お兄ちゃんが小さな声で言う。
マリコさんが思っているのは、ああいう人かな?』
その視線を辿ると女の人がひとり、老舗のものらしい万年筆を手に、ときどき微笑みを浮かべながら便箋に何かを綴っている。私たちは少しの間、その様子をそっと眺めていた。声には出さないけれど、私たち3人の中に『いいね』が飛び交っていた。

 

『あのお客さん、ミユキさんたちのお店にも来るといいですね』
ミユキさんはにこりとした。そして
『そうだわ、すっかり忘れていた』
と言って、小さなリボンの掛かった箱をお兄ちゃんと私の前にそれぞれ置いた。

 

『開けてもいい?』

『どうぞ、どうぞ。2人とも同じものだけど、うちの店で扱っているチョコレートなの。ここもね、今回の企画に参加するのよ』

お兄ちゃんが不器用な手つきで、リボンを解く。
『わぁ、きれいなピンク色。苺のチョコですか?』
『これね、カカオそのものの色なんですよ。ルビーカカオっていう品種らしいわ。この色のインクも作ることになって。トモヨさん、資料用にカカオ豆のデータ、お渡ししてもいいですか?』
『じゃあ、携帯にいただきますね』

 

ミユキさんが私の携帯の待ち受けに目を留めて
『これ、猫、ですか? 面白い絵ですね』
と言った。お兄ちゃんも覗く。
『あ! トモヨ、これ、いつの間に?』

ミユキさんが不思議そうな顔をする。
『これ、お兄ちゃんの絵なんですよ』
ミユキさんはニヤニヤしながら、お兄ちゃんと猫の絵を見比べて
『積み木みたい。だけど、なんとなく味があるわね。トモノリさん、さすが猫好きだわ』と笑う。
『上手くはないんですけどね。なんとなく、気に入っていて待ち受けにしちゃいました。私の仕事仲間は面白がって、この絵でゴム印を作って使っているんですよ』
『おーい、君たち。使用料、もらってないよー』
『いいじゃないの、これぐらい』

 

『トモノリさん、この絵いつ描いたの?』
『小学校高学年の夏休みだったかな。だけど、どうしてトモヨが持っているんだよ?』
『お盆に帰省したとき、見つけたのよ』
『まったく、油断も隙もないな』

 

お兄ちゃんは『やれやれ』という顔をして、ホットサンドを囓る。ミユキさんはクスクス笑って、コロンビアを飲む。このお店のウィンナコーヒーは、クリームが小さなガラスの器に入って、コーヒーに添えられていた。まず、ひと掬いコーヒーに浮かべて、かき混ぜないで飲む。これが私のお気に入りの飲み方だ。このお店、好きだな。サンドイッチもおいしかったし。近所だからまた、ちょこちょこ来よう。

 

トモヨさん 3

ミユキさんが『乙女』と評したこのお店の小ぶりな玉子サンドでは、お兄ちゃんのお腹は満たされていないようだ。視線に気付いたスタッフさんがオーダーを取りに来てくれた。フリルのついたエプロンが、とても似合っている人だな。

 

ゴルゴンゾーラのホットサンドとブラジルをください。2人は? 何か追加しないの?』
『ミユキさん、どうしますか?』
『そうですね、じゃあ私はコロンビアを』
『ウィンナコーヒーをください』
スタッフさんは銀のきれいなボールペンで私たちのオーダーを書きとめて、カウンターに戻って行った。私はウィンナコーヒーが大好きなのだけど、最近は置いていないお店も多い。もしかして、お兄ちゃんは敢えてウィンナコーヒーのあるお店を選んでくれたのかもしれない。

 

お兄ちゃんはミユキさんのタブレットを慣れた手つきで操って、今回の企画に参加するお店の画像を眺めていた。

ハーブティーのお店もあるの? マリコさんってコーヒーしか飲まない、と思ってたよ』
『まあ、基本的にはね。このお店はね、ママが頼りにしている鍼灸師さんの奥さんにおまかせしているのよ。施術の後に奥さんが淹れてくれたハーブティーが、とても美味しかったんですって。それで、鍼灸院の敷地に増築してカフェも始めたの。マリコのマは巻き込むのマ、だものね』
『目に浮かぶね。マリコさんが鍼灸師さん夫婦にカフェのパースを見せるところが』
お兄ちゃんは面白そうに笑っている。

『その鍼灸院、行ってみたいな。最近、どうも細かい字を見ていると、目がね』

『行くのはいいけど、離島よ。トモノリさん、日帰りできるかしら?』

『あはは、さすがマリコさんだね。行動範囲が広い』

『それでも昔に比べたら、おとなしくなったわ。最近はマンションの近くの店に出ることが多いもの』

 

ミユキさんはタブレットに手を伸ばして、画像を変えた。

『ほら、この店よ。ママのマンションから歩いて5分なの』

覗き込むと、そこには文豪たちの名作がずらりと並んだ本棚のあるお店が。マリコさんが好きな作品を自分でデザインして製本したもので、お客さんたちが気軽に読めるように、と喫茶店に置いてあるらしい。

吾輩は猫である』『猫と庄造と二人のをんな』『青猫』他にも『猫』を含むタイトルが、たくさん並ぶ。国語の教科書で見たことのある名前や『はじめまして』の名前も連なっている。

 

『ここはね、旧かなの文章の美しさをコーヒーとともに味わって欲しい、と言って始めた店なの。最近、ママは週に1度はこの店にいるわ。ここの本を読みに通ってくる若いカップルさんと話すのが嬉しいみたい』

ミユキさんはまた、タブレットの画像を戻してお兄ちゃんに預けた。

 

『あ、栞さんのところだ。画像で見ると、少し印象が変わるね。だけど、やっぱりここは僕の心のふるさとだなぁ』
『ありがとう。そう言ってもらえると、私もママも本当に嬉しい』
心のふるさと、か。お兄ちゃんが本当にお世話になっています。マリコさんもお兄ちゃん同様に、かなりの猫好きだという。お兄ちゃんが新入社員の頃からの付き合いで、猫の話題ですっかり、意気投合したそうだ。猫グッズだらけのお店、話にはよく聞いているけれど、私はまだ1度も行ったことがない。

 

ミユキさんは私がイメージを膨らませやすいように、それぞれのお店の歴史や店長さんたちとのエピソードをこと細かに話してくれた。ミユキさんの何気ない言葉のひとつひとつから、ミユキさん親子の『喫茶店への愛』が伝わってくる気がしていた。


『ほら、トモヨ。うぃんにゃーコーヒーが来るぞ。よかったにゃー』
この言葉からも、お兄ちゃんの『猫たちへの愛』が伝わってくるような? ちょっと、違うか。

 

トモヨさん 2

ミユキさんがお兄ちゃんの前に、3枚の名刺サイズの茶色いカードを並べる。
『手品でも始めるの?』
『違うわよ。トモノリさん、この3色の見分けがつけられる?』
『3色? みんな同じ色だよね?』
お兄ちゃんにとっての色の数は、小学校のときの24色の色鉛筆が最大だろうな。

左の色は、真ん中よりも赤みがある。右の色は黄色が混ぜてあるようね。だけど、ぱっと見ただけだと同じに見える、というのもわからなくはない。
『トモヨさんなら、見分けられますよね?』
『はい、左の色が1番赤みが強いですよね?』
『さすが、絵のお仕事をしている方ね。私は見分けられませんでしたよ。栗の渋皮をイメージした色の見本なんですよ』

栗の渋皮の色、秋にはぴったりだ。今回、ミユキさん親子の経営している喫茶店で、万年筆用の『オリジナルインク』や手紙用品の販売を始めることになった。私はそのパッケージやディスプレイ用品に使うイラストを担当させていただくことになった。

この企画に参加するのは、タイプの違う8店舗で、それぞれのお店の個性に合った色のインクを職人さんが調合することになっている。『万年筆とインク』という王道コンビで手紙を書く楽しさを次の世代にも…というマリコさんの願いが込められている。

『喫茶店はたいせつな人を思い出しながら、ゆっくりと手紙を書くのには、最適な場所なのではないか』マリコさんとミユキさんは、そう考えているようだ。私もその考えに賛成だ。図書館のように静か過ぎるところよりも、喫茶店のように程よく人の話し声や、食器の音が聞こえているところの方が心地よい。


『この3色の中で、どれが1番栗の渋皮の色のイメージに合うと思いますか?』
『そうですね、私なら、この真ん中の色を選びます。インクの色としても素敵ですけど、こんな色のコートも欲しいな』
『コート、いいですね! トモヨさん、似合いそうだわ』
私たちがお洋服の話を始めると、お兄ちゃんはまるで関心のなさそうな顔で、2杯目のコーヒーを飲み始めた。

『いけない、いけない、お仕事の話でした』
ミユキさんと私は顔を見合わせて、笑った。
『この栗色のインクを置く店の隣に、うちの店長の幼なじみがやっているおにぎり屋さんがあるんです。そこでも、一緒にインクやポストカードを扱ってくれることになったんですよ』
『おにぎりの中味の色? おかかとか?』
お兄ちゃんが話に戻ってきた。

『惜しい、おかかじゃなくて、1番人気の紅鮭と2番手のツナマヨでした』
ツナマヨ色のインク?』
『そうなのよ。おにぎり屋さんのブリジットさん、面白い人でね、すっかり仲良くなっちゃったわ』
『ブリジットさんって、外国の方ですか?』
ミユキさんは首を横に振った。
『違うの。あだ名なんです。芸名、と言った方がいいかもしれないわね。劇団にいたことがあるんですって』

おにぎり屋さんのブリジットさん、何だか楽しそう。私の創作意欲も上がってきたわ。よいお仕事に出会わせてくれたお兄ちゃんに、感謝。ついでに新しいコートも買ってくれたら、もっともっと、感謝なんだけどね。

トモヨさん 1

今のマンションに住み始めてから、10年近くが経つけれど、側にこんなお店があったとは知らなかった。サンドイッチが美味しい喫茶店、コーヒーは自家焙煎だって。

ミユキさんがお兄ちゃんに言う。
『まさか、トモノリさんにこんな乙女なお店に案内してもらえるとは思っていなかったわ。奥さんの好み?』
『いや、この間、お取引先の部長と一緒に来たんだよ。家内は紅茶しか飲まないから』

『乙女』か。確かに食器は小花の模様で揃えられていて、スタッフさんのエプロンもフリルのついたものだ。サンドイッチも女の子が食べやすいように、細めにカットされている。

お兄ちゃんは玉子サンドを片手にタブレットを眺めている。
『ここに載っているのも、マリコさんのお店なのか。盆栽を見ながらコーヒーを飲む、とは渋いね。相変わらず、趣味がが広いな。栞さんのところ以外にも、お店があると聞いてはいたけど』

私はスケッチブックをミユキさんに差し出す。
ミユキさんは
『拝見します』
と受け取った。
『この仕草がいいですね。トモヨさんも猫がお好きなんですか?』
『はい。でも、兄ほどではありませんよ』
ミユキさんはクスッと笑って、スケッチブックを丁寧に捲っていく。やっぱり、お兄ちゃんの猫好きは強烈なようだ。

お兄ちゃんは盆栽の曲がった枝を見ながら、自分も体を撚っている。
『木って、こんな曲がり方もできるものなんだね。猫のしなやかさにも、似ているかもしれないな』

『あら、この絵、私、すごく好きです。猫が万年筆でお手紙を書いているんですね』
お兄ちゃんがタブレットから目を離して、スケッチブックを覗き込んで言う。
『なになに? 拝啓、トモノリさま。また、あなたさまのお膝の上でゴロゴロできるのを一日千秋の想いで待ち焦がれております、だって? 僕もだよ。猫ちゃん』
『書いてない、書いてない』
と、ミユキさん。

『お店でも、こんな感じなんですか? 兄は』
『そうですねぇ。お客さまは皆さん猫好きですけど、トモノリさんはダントツですよ』
『ご迷惑、かけていませんか?』
『いいえ、全然』
ミユキさんが寛容な人でよかった。


ミユキさんは、お兄ちゃんの行きつけの喫茶店のオーナーの娘さんだ。今回、お店の企画のためのイラストレーターを探していると聞き、3人で会うことになった。オーナーのマリコさんはタイプの違う喫茶店をいくつか経営しているという。お兄ちゃんがお世話になっているのは、その中のひとつ『猫をテーマにした手工芸品を集めた喫茶店』だ。

猫のいる暮らしが私たちにとっては当たり前だったけれど、奥さんが大の犬好きなので今は猫と暮らすことができない。そんなお兄ちゃんにとって、その淋しさをなぐさめてくれている『とっておきの場所』なのだそうだ。


灯台下暗し、ってこういうことかしらね。まさか、こんな身近にイメージ通りのイラストを描いてくれる作家さんがいたなんて』
『気に入っていただけましたか?』
『もう、期待以上ですよ。どうぞ、よろしくお願いします』

お兄ちゃんは、またタブレットを眺めている。玉子サンドのお皿は空になっていた。コーヒーをひとくち飲むと、今度は私の苺サンドに手を出した。
『痛いっ』
お兄ちゃんの脚に、キック。つい、子どもの頃からの癖が。
『なんだよぉ、もう』
と、サンドイッチにかじりつきながらジロリと私の方を見る。ミユキさんは笑って
『仲がいいのね』
と言った。

私たちは顔を見合わせて、同時に
『それほどでも、ないよねえ?』
と言った。
『ふたりのその言い方、そっくりね』
ミユキさんは、また笑った。

ティピカちゃんねる 3

皆様、ごきげんよう。ティピカです。今頃の時期になると、人間たちは『夏休み』といってほんの数週間のあいだ仕事や学校から離れるようです。

どうも、人間たちは私たち猫のようにゆったりとくつろぐことが上手ではないように思えてなりません。せめて『夏休み』ぐらいはゆるやかに過ごしてもらいたい、そう願います。

相棒のジュンコと私が住むこの町は、蕎麦の産地としてよく知られています。そして、もうひとつ温泉の町としても有名です。なので、人間たちが休みになると、この町の空気も変わるのです。


アベルがカラコロ、と音を立てて若い女性の2人連れが入ってきました。はじめまして、のお顔ですね。ジュンコの『いらっしゃいませ』も、普段より少しだけ澄ましているような気がしなくもありません。

片方の女性と目が合いました。女性は表情を変えずに『あ、猫』とつぶやきました。どうやら、猫好きというのでもなさそうですね。そっとしておいてあげるのも、おもてなしのひとつでしょう。カウンターの後ろへ。

2人は入口のすぐ側の席に並んで座りました。私と目を合わせた女性が、メニューを眺めています。連れの女性がジュンコに話しかけます。
『私たち、3日前からこの近くの民泊にお世話になっているんですよ。おいしいケーキが食べたい、と言ったらこちらを教えてくれたんです』

民泊、私の仲良しのお蕎麦屋さんの奥さんの親戚のお家ですね。あそこのお嬢さんはピアノがとてもお上手ですよ。是非、お聴きになってくださいね。

ジュンコに話しかけた女性はガトーショコラとカフェオレを、私を『猫』と言った女性はマドレーヌとアイスコーヒーをそれぞれに注文しました。常連さんのルリコさんが来る時間まで、私はおめかししておきましょうか。カウンターの中のジュンコに尻尾を踏まれない場所に移動しましょう。女性たちの会話が聞くとは無しに耳に入ってきます。

『あなたも、せっかくこんなにお蕎麦やお野菜が美味しい町に来ても、ケーキは欠かせないのね』
『いくらおいしくても、ケーキの魅力に勝てるものは、そうそうないわよ。お姉ちゃんって、ほんとに和食、好きよね。煮物とか、ごま和えとか、そういうお料理』
『だって、美容と健康には、やっぱり和食でしょ? 明日は美肌効果のあるお湯に行きましょうよ。目指せ、美人姉妹よ!』

『そういえば、先生とのデートはどうだったの? あの薄暗い民家カフェに行ったんでしょ?』
『薄暗いって、あなたにはあの陰翳礼讃のような世界観がわからないのかしらね?』
『男の人って、ああいうお店好きかなぁ? お菓子もあんことか、和菓子ばっかりだったし』
『あら、先生はあのお店を気に入ってくださったわよ。ただね…』
『ただ?』
『せっかくのあの漆喰の壁にね、どぎつい色合いの迷い猫の貼り紙がべたべた貼ってあったのよ』

迷い猫、思わず聞き耳を立てます。
『テレビや雑誌にもよく出てる猫らしいの。なんだか、睨みつけるような顔の猫だったわ。先生、猫好きみたいでその猫のこともよく知っていたわ』
『お姉ちゃん、昔から犬の方が好きだものね。猫好きの先生と、話合うの?』
『犬猫以外の話だって、あるじゃない』
『まあねぇ』


おや、外に誰かいますね。
ジュンコ、ドアを開けてよ。外に出たいよ。
『はいはい、お散歩に行きたいのね』
ジュンコはカウンターから出て、ドアを開けてくれました。カラン、コロン。聞き慣れているドアベルが耳に心地よく響きます。


『ティピカのおっさん、おつかれさん』
『やあ、ユキ君か。散歩かい?』
『いや、これからミケコ姉さんのところに行くから一緒にどうかと思って』
『ああ、ありがとう。せっかくだけど、もうすぐ常連さんが来るから、またにするよ』
『働き者だねぇ、おっさんは。人間みたいだな。まぁ、俺もあまりひとのこと言えないか。じゃあ、次は来てくれよ』
『ああ、わかったよ。ミケコちゃんによろしく』

ユキ君の後ろ姿を見送りながら、あの無愛想だった猫がすっかりこの町に馴染んできたものだと、つい、先輩ぶった気持ちになります。まさか、さっき店で女性たちが話していた迷い猫というのは。それに、ユキ君がぽつりと言った『俺もあまりひとのこと言えないか』という言葉。おっと、これ以上の詮索は不要ですね。


小さくなっていくユキ君の後ろ姿の反対側から、今度は人間の家族連れがこちらに近づいて来ます。小さな女の子がユキ君を見て
『あ、猫ちゃん。こんにちは』
と、声をかけています。微笑ましいですね。

家族連れが、だんだんと私の方に近づいて来ました。
『ママー、また猫がいるよ』
男の子が私を見て言います。
『あら、本当ね。猫の多い町なのかしら』
男の子が私の側にしゃがんで手を差し出して、こう言います。
『おい、猫、お手!』
あのー、私、犬じゃありませんけど。
『猫、お前、お手できないのか? こうやるんだぞ』
と、私の手を掴んで自分の手のひらにのせます。
『わかったか? もう1回いくぞ。お手』
いや、私は『お手』はしませんよ。
『お前、物覚え悪いなぁ』

いえいえ、私、こう見えて記憶力には自信があるのですよ。1度でも店に来てくださったお客さまのお顔は絶対に忘れませんよ。さっきユキ君に挨拶していた女の子も真似をして言います。
『おまえ、ものおぼえ、わるいなぁ』
そして、私の尻尾をぐいっとひっぱります。痛い、痛い。こんな小さな手にずいぶんと、大きな力があるものですね。ジュンコにうっかり踏まれたときよりも痛いですよ。
『ほら、行くぞ』
『待って、パパ。じゃあねぇ、猫ちゃん。ごきげんよう

ああ、びっくりしました。『夏休み』には色々な人が登場しますね。さあ、毛づくろい、毛づくろい。少し落ち着いてきましたよ、やれやれ。

『ティピカ、日なたぼっこ?』
振り向くと、ルリコさんの姿が。数時間ぶりに『猫』ではなく、名前で呼んでもらいましたよ。店までルリコさんと並んで歩きます。ルリコさん、お待ちしてましたよ。きょうのケーキはガトーショコラですよ。

また、ドアベルがカラン、コロンと鳴ります。
『いらっしゃいませ。あら、ティピカも一緒だったの』
ジュンコがいつもの声で言います。先ほどの『美人姉妹』はルリコさん用に置いてあるフランス語版のファッション雑誌を仲よく眺めていました。
『このモデルさんのウエスト、私たちの半分ぐらいかしらね?』
『私たち、って言わないでよ。私のウエストはあなたよりもモデルさん寄りだわ』

ルリコさんは、いつもの席に座って小さなバッグから文庫本を取り出しました。ジュンコは静かにコーヒー豆を挽き始めました。きょうは店のここだけが、いつもどおりの眺めです。ほっとしたので、私はちょっとだけ寝ることにしましょう。

タケオさん 4

ミユキちゃんは喫茶店に来ると、よく
『やっぱり、人に淹れてもらうコーヒーは美味しいわねぇ』
と目を細める。その表情はマリコ母さんが膝の上の猫を撫でているときの顔と、よく似ている。

そんなミユキちゃんだって、マリコ母さんに『巻き込まれている』とき以外は心の友、栞ちゃんの喫茶店の手伝いに行ったり、製菓学校に招かれて、コーヒーに関する講習をしに行ったりする程の腕前なのだ。

オレンジ色の髪のスタッフさんが僕たちの前に置いていってくれた追加注文のコーヒー、確かにこのお店も新鮮な豆を使っているのだということは、わかる。だけど、これはボタンひとつで淹れられたコーヒーであることは間違いないだろう。今回、ミユキちゃんがこのお店に来たがった理由が僕にはよくわからなかった。

『それにしても、お茶碗でコーヒーもずいぶんと表情を変えるものね』
ミユキちゃんがふと、こんなことを言う。
『ホルダー付きのガラスのカップって、昭和時代の引き出物みたいって思ったけど、若い人には新鮮に見えるのかもね。私はマキちゃんのところのような食器が好みだわ』

『気になっていたけど、マキさんのお店って、もしかして陰翳礼讃をテーマにしていない?』
『あ、わかった? 陰翳礼讃をテーマにしようって、マキちゃんの旦那さんの提案なのよ。愛読書なんですって』
『道理で、この羊羹が際だつわけだね』
『羊羹もね、何度も型を変えてようやくこの大きさに落ち着いたのよ』
『谷崎先生のファンとしては、嬉しい話だな。その旦那さんにも会ってみたいね』
『ヨシユキさんっていってね、職人気質の人だから、きっとタケちゃんとも話が合うと思うわ』

『陰翳礼讃』はヨシユキさんが高校を辞めるときに、国語の先生がプレゼントしてくれた本だという。姉のような若い先生で、煙草で退学になるのを何とか庇おうとしてくれたそうだ。婚約者だった学年主任の先生との関係を壊してまでも。

ミユキちゃんは話しながら、ちょっと目を潤ませて
『ドラマの中の熱血先生みたいよね』
と言った。知識以上のものを伝えられる先生…。ヨシユキさんにとって、貴重な出会いだったのだろうな。

ミユキちゃんと僕は同時に、ホルダー付きのガラスのカップを持ち上げてコーヒーを飲んだ。
『あ、真似した』
『そっちこそ』
笑みがこぼれる。そのとき、黒いおかっぱ頭の学生さんっぽい女性が近づいてきた。

『あのー、ニット作家のタケオ先生、ですよね?』
『はい、そうです』
『ファンなんです。よかったら、一緒に写真撮ってもらえませんか?』
そのお嬢さんは、自分と僕を撮った後も僕だけを色々と角度を変えて撮っている。タレントさんの撮影会というのは、こんな感じなのかな。

『あ、笑ってくださーい。そして、顎に指を当ててみてくださーい。そうです、そうです』
お嬢さんの堂々とした口ぶりにつられて、つい僕もポーズをとってしまう。恥ずかしい。

お嬢さんは『これ、待ち受けにしますね』と、言い残し、満足そうにお店を出て行った。お嬢さんの後ろ姿を見送りながら、僕は真夏にもこもこのセーターを1枚編み上げたような気持ちで、カップに残っていたコーヒーをごくごくと飲み干した。

『タケちゃん、ごくろうさま』
ミユキちゃんが少し、困ったように微笑む。
『私、タケちゃんの知名度を低く見積もり過ぎていたみたいね。若い人のお店なら、タケちゃんを知っている人には会わないだろうと思ったんだけどね』
そうか、このミユキちゃんらしくないお店は、僕に気を遣って選んでくれたのか。ありがとう。

確かに、編み物の本やDVDを出すごとに街中で知らない方たちからも、お声を掛けていただくことが増えてきて、戸惑うこともある。タレントさんでもないのに、サインを求められることや携帯電話で写真を撮られることもよくある。

だけど、作品よりも僕自身に関心が向いてしまうのだとしたら、それは作品に力が足りていない、ということなのかもしれない。僕はまだまだ見習い小僧なんだな。さあ、気を取り直して次の作品をよりよいものにしよう。ね、ごまおはぎ猫さん。そして、ミドリおばちゃん。

『ねえ、ミユキちゃん。まだお腹に余裕があったら、もう1軒寄って行かない? 駅前にサイフォンで淹れてくれる美味しいお店があるんだよ』
ミユキちゃんは僕の顔をまじまじと見て言った。
『私ね、時々タケちゃんって、私の心の声が聞こえているのかもしれないって思うことがあるのよ』