ことのはカフェ

カフェに纏わる由なしごとをそこはかとなく綴ります。

栞さんのボンボニエール 73

ここの朝一番のお客さんは大概は八百屋さんのお父さんだ。この頃はお父さんにも引けを取らないぐらい早くに猫ちゃん御殿の主、トモノリさんもご来店だ。以前のお家はここからはそんなに近くはなかったのだが、新居はここからも会社からも徒歩圏内ということで、ほぼ毎日モーニングの時間帯とお仕事の後の2回、場合によってはランチタイムにまで来てくださるという上得意さまになってしまった。


『やっぱり、これから仕事っていう時にはコーヒーだよね。スタートダッシュが全然違うよ』
トモノリさんの元の奥さんは圧倒的な紅茶党で、お家にはインスタントコーヒーすら置いていなかったのだという。家事はすべて、おまかせしていた以上は何も口出しはするまい、と思っていたトモノリさんは『コーヒーが飲みたい』とは、ずっと言えなかったそうだ。だけど、それぐらいのことは大抵の女の人は聞き届けてくれるものじゃないかしら? よそさまの事だから、私は何も言うつもりはない。それに、トモノリさんは新しい猫ちゃん御殿での暮らしを心底楽しんでいるようだし。

 

『タケオさんに借りた、おばさん刑事のDVD、傑作なんだー。栞さんも見せてもらうといいよ。おばさんの家にいるにゃんこがまた、名脇役なんだにゃ、これが』
モーニング用のブレンドコーヒーのカップを片手にトモノリさんはにやにやが止まらない。
『家と会社が近くって、いいもんだね。出社前にこんなにも、ゆっくりコーヒーが飲めるんだから』
確かに、私もそれは日々、思っている。世間さまよりも朝が早いこの喫茶店業界、通勤時間が長かったら私には到底、無理だっただろう。

 


カラン、コロンとドアベルが鳴って、入って来た顔を見ても私は驚かなくなっていた。父だった。
『あら、いらっしゃいませ』
『よう』
そう言って、カウンター席に座る。喜寿を過ぎてようやくコーヒーの楽しさに目覚めた父は、10日に1度ぐらい立ち寄るようになっていた。そして、メニュー表にあるストレートコーヒーを上から順に、毎回ひとつずつ注文する。
『きょうは、ケニアだな』
『かしこまりました』
『あと、芋のサラダのサンドイッチと』
コーヒーを飲みながら小さなノートに感想をしたためる。特に気に入った豆は『母さんにも飲ませてやろう』と言って、買って行く。

 

父は水飴の入っていた瓶を私に寄こして
『ししとう味噌だ。夕べ、母さんが作っていたから、お前さんにも持って来たぞ』

と言った。
『ありがとう。ししとう、家の畑の?』
『そうだ。母さんは味噌用にわざと残しておいて、辛みを強めるんだよな』
『焼きおにぎりにしようっと。冷や奴もいいわね』
『俺はもう少しだけ、甘みをきかせた方が好みなんだが』
父は秘密を打ち明けるような調子で言った。長年、一緒に暮らしていても、微妙な味加減なんかはそれぞれなのよね。
『お母さん、お料理にあまりお砂糖使わないものね』
『ああ、婆さんは砂糖の効かせ方が上手かったな』
『そうね。お料理の角がとれる、っていうのかしら。おばあちゃんは本当にお料理が上手だったわね』
昔は近所の若いお嬢さんが何人も習いに来たこともあったのだ、と叔父から聞いたことがある。そんな時でも祖母は絶対にお月謝のようなものは受け取らなかったそうだ。祖母が教えたお嬢さんの1人は、高校の家庭科の先生になったのだとも、人づてに聞いた。

 

『ケニア、美味いな。これは母さんと、パークゴルフの仲間にも飲ませたいな』

『売り上げにご協力、感謝』

『クッキーの詰め合わせも貰おうか。このあいだの大会の反省会が、この後なんだ』

『じゃあ、クッキーは私から皆さんにサービスさせてもらうわ。いつもお世話になっちゃって』

ふと、父が咳をする。ボンボニエールからはちみつのど飴を2つ、父の手のひらに。朝晩、涼しくなってきたものね。パークゴルフのおかげで、会社勤めの頃よりも体力はあるように見える。運動、大事よね、やっぱり。明日から、いつもより5分早く起きて、マンションからここまで少しだけ、回り道してみようかしら? なかなか颯爽とした父の後ろ姿を見ながら、そんな事を考えてみた。

 

ティピカちゃんねる 68

皆様、ごきげんよう。ティピカです。今朝、お客様がまだどなたもいらっしゃらない時間、店の窓から外を眺めていましたら、トンボ君が窓の枠に止まって私にこう訊ねました。
『君さ、あそこに咲いている、あの花が見えるか?』
『ああ。美しい花だね』
トンボ君は頷くと、また訊ねました。
『君、あの花の名前を知っているか?』
『さあ』
『…そうか。私はあの花の名前を知っている、という言葉にまだ1度も出会ったことがない』

階段を下りる足音がして、ジュンコが言います。
『ティッティ、あなた、きょうはずいぶん早起きなのね』
『ニャー!』時計をご覧よ。寝坊しているのは、ジュンコの方だからね!
ジュンコは店の時計に目を向けて
『あら、リビングの時計、遅れているのね』
と、呑気に言いました。窓の外のトンボ君は、また花の名前を知る誰かを探しに行ったようです。

 

通勤時間がかからない、ということは人をこんなにも穏やかにするものなのですね。会社員時代のジュンコなら、きっと、目を三角にして『わかっているなら、起こしてよ』ぐらいのことは言っていたかもしれません。おかげさまで、ランチタイムも無事にすらすらと流れ、常連さんのルリコさんが愛車チャリ坊とともにご来店です。

 

ルリコさんは、いつものマドレーヌを食べながら、こんなお話を始めました。午前中に町内会の役員さんが『自分よりも若い人に敬老もどうかと思うけど』などと言いながら、敬老の日の記念品を届けに来てくれたのだそうです。

『中身は毎年、同じでね、この町のゆるキャラのイラスト入りの薄ーいタオルと緑茶のセットなの』
タオルの薄さをそんなに強調しなくても、
よいのでは? ジュンコなんかは『乾きが早くていいのよね』と、薄手のタオル支持派なのですけれど。私の心の声が聞こえたかのように、ルリコさんは付け加えました。
『役員さんたちが、全部、箱詰めして熨斗紙を掛けてくれてるのよねぇ。頭が下がるわよ』
そうですとも。私の仲良しのお蕎麦屋さんの奥さんだって、毎年、お手伝いしているんですよ。

 

ルリコさんは『本日のコーヒー』のベネズエラをひとくち飲んで、言いました。

『セットのお茶がね、結構おいしいの。何年か前に、たまたま息子にも飲ませたら、すっかり味を占めて、この時期を狙って飲みにくるようになったのよ』
息子さん、たまにはルリコさんとゆっくりお話したいのですよね? ですが、自由気ままを愛する我らがルリコさんは不服そうに『あなたも、そのうち頂けるようになるじゃないの』と、申し立てたのだそうですが、息子さんも負けずに『まだ、先の話だろ?』と澄ましているのだとか。親子ですねぇ。

 

ジュンコが言います。

『私、敬老の日って、9月15日だった頃のイメージが未だに拭えないのよね』

『あら、ジュンコさんも? 若いのに、意外だわ』

『若いって、私だって、昭和の人間ですもの』

『じゃあ、旗日っていう言葉、使っていた?』

『さすがに、それは。私たちよりも上の年代の人が言うのは耳にしていたけど』

『昔は祝日になると、タクシーなんかも小さな国旗、付けて走ったものよね。今は国旗ってサッカーの世界大会なんかで見る方が多くなってしまったわね』

『本当ね』

 

ルリコさんもジュンコも、何だかしんみりとした表情になっています。ふと、ジュンコが思い出して言います。

『そうだわ。これ、ネコちゃんからお預かりしたんだけど』

と、カウンターの抽斗から、きれいなリボンが掛かったギフトバッグをルリコさんに差し出します。

『お友だちから、たくさん貰ったから、お福わけなんですって』

バッグの中を見たルリコさんはクスッと笑って
『あの子なりに気を遣っているのよね。敬老の日だから、って言うと、私が厭がると思って』

さすが、お祖母さん。イネコさんの気持ちはお見通しなわけですね。

『私の好きなお店の最中、若い子が、そうそう手土産になんかしないわよ』

そう言いながらも、ルリコさんはちょっぴり嬉しそうです。そして、お財布からお札を出して言います。

『ジュンコさん、頼まれてくれる? これ、あの子の明日のコーヒー代』

そんな時のルリコさんは、しっかりお祖母さんの表情になっています。私がにやにや眺めていると
『ティピカ、何か言いたそうね』
と、ジロリ。まったく、照れ屋さんなんですから。

『いいじゃないのよ。私だって、たまにはお小遣いぐらい渡したいことも、あるのよ』

『ニャー、ニャー』まあまあ。

照れ屋さんのルリコさんがご機嫌を損ねないうちに、私はちょっとだけ寝ることにしましょう。

 

サトルさんとモンブラン 64

この店をすっかり任されることになる前には、オーナーのマリコさんと長年付き合いのある職人が焙煎したコーヒー豆を使っていた。マリコさんが経営している他の20店舗以上は今でもその豆だ。同じ生豆でも、誰が焙煎するかで全く違う味わいになるのだから面白いものだ。俺はブラジルはいつも中煎りにしているが、マリコさんのところの職人は浅煎りと中深煎りの2種類を用意し、各店長がそれぞれの好みで使い分けていた。はじめはこの店の客だった俺にマリコさんがこの浅煎りを『サービス』してくれた。聞かされなければブラジルだとはわからなかったと思う。生豆と腕によほどの自信がないと、この選択肢は難しいだろうな。この豆と出会っていなければ、俺が焙煎に興味を持つことはなかった、と言ってもいい。

 

毎度おなじみの宅配便のフジワラ君が

『じゃあ、大事なお荷物、確かにお預かりします!』

と、猫のマークが付いた帽子に手を添えた。マリコさんに誘導されたかのように始めたコーヒー豆の焙煎だが、おかげさまで気に入ってくださる方もいて、店で使う以外に地方発送までさせていただいている。きょうフジワラ君に託した荷物の中には、わが友トオルちゃんへのものも含まれていた。今朝、店に着いた俺を待ち受けていたものはトオルが昨夜、おそらくはほろ酔い加減で寄越したであろうファックス注文だった。コーヒー豆の種類と数量があいつの少し癖のある文字で、うねうねと書き連ねてあった。注文書の余白には近況が綴られていて、百貨店勤めのあいつは大型の催事を控えて、休日返上で駆けずり回っているらしかった。『社畜』はお互いさまだな。

 

トオルとは、中学2年の時にクラスが一緒だった。黒板にお世辞にも上手とは言えない絵で、ひとコマ漫画のようなものを描き散らかしてはよく、先生に黒板の掃除を命じられているような奴だった。その名残が注文書にも、しっかりと現れていた。最近、出張先で食べたトマト味の蕎麦つゆがたいそうお気に召したらしく、トマトを両手に持った自画像が添えられていた。トマト味か。ちょっと食べてみたい気もする。トオルはこの田舎町からはほど遠い都会で暮らしているので、直接会うのは年に1度ぐらいなのだが、電話なんかではよく話すことがある。中学2年当時はおっさんになってから、あいつとこんなに関わり合うことになろうとは思いもしなかっただろう。

 

ガラガラと引き戸が鳴る。ヨシコの休憩時間か。

『あー、お腹空いた。サトルちゃん、ホット。あとチーズトースト。胡椒、多めにしてね』

『おう』

ヨシコはグラスの水をひと息に飲んだ。

『サトルちゃん、モンブラン、まだある?』

『ああ。あと、3個だな』

『じゃあ、他のケーキは? 5個欲しいんだけど』

『いま食うのか?』

『なわけないじゃん。義兄さんに頼まれたのよ』

サトルちゃんのお茶目な冗談はヨシコには通じなかったようだ。

『種類を混ぜてもいいなら5個にできるけど』

『あー、じゃあ、やっぱりタツオくんのお店まで行かないと無理か』

 

お義兄さんがご近所の人からトマトをたくさん貰ったのだという。その人も親戚の家庭菜園でとれたものが大量に届き、多すぎて食べきれないのだそうだ。家庭菜園、やたらと上手な人がいるものだ。うちの奥方さまの知り合いにもそういう人がいるらしく、先週の夜、テーブルの上に『パパ、おつかれさまです。冷蔵庫にサラダ、あります』

とメモ書きがあり、めずらしいこともあるものだ、と開けてみると、ビニール袋に丸のままの胡瓜が3本と賞味期限が迫った未開封のマヨネーズのチューブが無造作に置いてあった。サラダ、ね。以前にも似たようなことがあったような。ご本人はご友人と三つ星レストランでディナーだとか。せめて、胡瓜は野菜室に入れてくれよ、と思い野菜室を開けると、そこにも新聞紙に包まれた大量の胡瓜があった。翌朝ご本人に訊ねると、知人の家庭菜園のものだ、との事だった。もし、俺に英国紳士の友人がいたら届けてやりたい程の量だった。

 

『ちょうど、タツオの店に電話しようとしていたから、ケーキ同じの5個寄せてくれるように頼んでみようか?』

『あー、ありがとう。助かるー』

トオルから、またタツオの焼き菓子の詰め合わせを手配して欲しい、と頼まれたのだ。まだ1度も対面したことのない2人だが、すっかりお互いをリスペクトし合っているようだった。電話口でタツオが『他ならぬトオルさんからのご注文なら、俺、めっちゃ、はりきっちゃいますねー』なんて、声を弾ませていた。

 

『義兄さんってね、トマト、湯むきしないと食べない人なの。まあ、確かに湯むきしたトマトって、美味しいよね』

俺の頭の中に美しく盛りつけられトマトを優雅に食べているお義兄さんの姿が浮かんだ。と、同時にわが家の賞味期限ぎりぎりのマヨネーズと大量の胡瓜も浮かんできて、その残像を追い払うのには、相当な努力が必要とされたのだった。

 

栞さんのボンボニエール 72

今朝、八百屋さんのお父さんがお店に出すには小ぶりだという隠元を持ってきてくれた。胡麻和えにして、ランチメニューのおまけにしたら、近所の会社の3人娘さんたちが大喜びしてくれた。娘さんたちの年代はお家では食べたことがないそうだ。親御さんは私よりも少しだけ年上、といった感じみたい。私は祖母の料理をしょっちゅう食べていたから、同年代の人よりも昔ながらのお惣菜に馴染みがあるのだと思う。『栞さん、胡麻和え、また作ってね』なんて言ってくれるとやっぱり嬉しいものだわ。

 

午後からの常連さんであるアカネちゃんママがいつもの時間どおりに来て、ワッフルを食べている。

『きのう、マリコちゃんとお蕎麦食べて来たのよ。アカネのひんやりマットを買いに行ったら、ちょうどお店に来ていて』

お2人は古くからの猫ちゃん仲間で、同じ猫ちゃん用品店でよく行き合わせるのだ。

『まだまだ残暑、厳しいわね、なんて言いながら2人とも温かいにしんそばにしちゃった』

と、笑う。そして、マリコさんのところにまた、新しい猫ちゃんが増えたことを教えてくれた。

 

夜になって、お仕事の後のお客さんたちが次々とお会計を始める頃、カラン、コロンとドアベルが鳴って文房具屋さんのマサヨさんがトモノリさんと一緒に入って来た。

『きょうはご一緒なのね』

『ケント君が店は俺が見てるから、母さんもコーヒー飲んで来たら? って、言ってくれたんだよ』

トモノリさんの手にはマサヨさんのところで『仕入れてきた』大量の猫ちゃんグッズが入った紙袋が提げられていた。

 

トモノリさんの玉子サンドを見たマサヨさんが

『栞ちゃん、私も頼んでいい?』

と、追加してくれた。トモノリさんは子どもがよくするように買ったばかりの『お宝』を取り出して嬉しそうに眺めていた。

『それにしても、トモノリさんのコレクションの量もこのお店に迫る勢いよね』

『今ね、タケオさんにフクスケ君をモデルにした編みぐるみにゃんをお願いしているんだよ』

今まではワンちゃん好きのご家族の手前、大っぴらに猫ちゃんグッズを使えなかったトモノリさんは『自由の身』となって以来、猫ちゃん御殿の主になり始めていた。先週、新居での『たこパ』にご招待いただいたマサヨさん、タケオさん、私の3人は猫ちゃん御殿の凄さに圧倒されてしまったのだ。トモノリさんはいつものブルーマウンテンを飲みながら

『また、たこパしようにゃ』

なんて言っている。

 

トモノリさんの新居は、以前よりずっと、ここからも近かった。なので、モーニングサービスの時間にも間に合うようになった。

『栞さん、今朝のモーニングのサラダのドレッシング、美味しかったにゃ』

ドレッシングはその日のお野菜に合わせて手作りしていた。

『たこ焼きにも、合いそうな気がするんだけどな。次のたこパに作ってほしいにゃ』

『了解』

トモノリさんは『たこパ』がすっかりお気に召したみたい。

 

マサヨさんが言う。

『そう言えば、八百屋さんの近くにたこ焼き屋さん出来るみたいね。お客さんから聞いたわ』

『偵察に行かにゃいと』

トモノリさんが腕まくりをして言う。

『私が子どもの頃に食べていたたこ焼きって、今よりももっと生地がどっしりしていて、おだんごみたいだったわ。祖母の家の近くにお店があったの』

『あー、言われてみるとそうよね。私もそのどっしりタイプ、覚えてる』

『僕は知らないなぁ。ところ変われば、だね』

トモノリさんはワイシャツの胸ポケットから猫ちゃんの表紙の小さなノートを出してメモ書きしている。そして、鞄からタブレットも出して、たこ焼きのレシピを調べ始めた。

 

『栞ちゃん、ブラジルもう1杯飲みたいな』

マサヨさんがコーヒーをおかわりする。ボンボニエールの中に果物のソースが入った真ん丸のチョコがあるのを思い出す。それをマサヨさんのブラジルに添える。トモノリさんには蛸唐草模様があしらわれた猫ちゃん柄の豆皿に載せて。チョコを食べながらタブレットを眺めているトモノリさんが

『ロシアンたこ焼き、かー。僕なら何を入れるだろうか?』

なんて言っている。私たちの参加する『たこパ』では、勘弁してね。

 

ティピカちゃんねる 67

皆様、ごきげんよう。ティピカです。お父さんがお店の賄いを更科そばにした時にはあんなに不機嫌だったお蕎麦屋さんの奥さんですが、お弟子さんが打ったものは嬉々として届けてくださるのですから、不思議なものです。

『ジュンちゃん、ティピちゃん、ご苦労さん。これ、きょうのあの子のお蕎麦なんだけど、どうだろうね? 私はなかなか、よく出来てると思うんだけどね。夜食にでもしておくれよ』
『おばさん、いつもすみません』
『こちらこそ、だよ。暑いから、アイスカフェオレでも貰おうか』

奥さんは首に掛けている手ぬぐいで、顔を押さえています。


『立秋を過ぎたというのに、毎日、暑いね。うちじゃ、ざる蕎麦とカレー蕎麦が行ったり来たりしているよ』
『どうしてかしらね? 暑いとカレーが食べたくなるの。うちも夕べ、カレーだったわ』
私は食べていませんけどね。ジュンコはきのうは私には、さっさと『猫缶』をあてがい、自分のカレー作りに専念し始めました。この頃はよい缶詰も出回ってはいますが、やっぱり、私はジュンコの手料理が1番嬉しいですよ。

 

奥さんはアイスカフェオレをひと息に飲むと
『後でうちの人が、バイヤーさんを連れてきて大騒ぎすると思うけど、よろしくね』
と、予告しました。お父さんはトオルちゃんが一緒だと嬉しくて、やたらと燥ぎますからね。お父さんが来る前に、ちょっと昼寝でもしておきましょうか。ジュンコが洗いものをしている音が心地よいです。効かせすぎていない冷房も。BGMのピアノ曲の音、お客さまが雑誌を捲る音、カップをそっと置く音。そんな音につられて、私の尻尾もゆらゆらしています。


おや、セミ君たちがお喋りを始めましたね。その声に張り合うかのように、お蕎麦屋さんのお父さんの声が聞こえてきました。やれやれ、そろそろ起きた方がよさそうですね。いつぞやは揺すり起こされましたからね。ぐっと伸びをして、毛づくろい、毛づくろい。わが友トオルちゃんのお洒落には敵いませんけどね。

 

カラン、コロンとドアベルが鳴って、お蕎麦屋さんのお父さんがトオルちゃんのためにドアを押さえています。
『さあ、どうぞどうぞ。よう、ジュンちゃん、ティピカ。まったく、暑くて敵わないな。さあさあ、もっと冷房を強くして。冷房代なんぞ我慢しても、たかが知れてるだろうがよ?』
『俺は大丈夫ですから、お気遣いなく。
ジュンコさん、おじゃまします。よう、ティピカ』
ニャーニャー! 『ようこそ、トオルちゃん! お父さんはセミ君たちと歌合戦でもする積もりですかね』

ジュンコはお2人に『いらっしゃいませ』と、ご挨拶をしています。お父さんは口を尖らせて
『ティピカは俺とトオルさんに対する態度にずいぶんと温度差をつけるもんだな。冷房もそのくらい、キンキンにしないとこの残暑には勝てないぞ』

お父さんはトオルちゃんの方に向き直ると満面の笑みで
『何でも好きなものを召し上がってくださいよ』
と言っています。温度差があるのは、どちらですかね。

 

お2人はいつもの席に座り、いつものコーヒーを注文しました。
『ジュンちゃん、この店でもさ、かき氷とかソフトクリームとか置いたらどうだろうね?』
お父さんだって普段は店のメニューに口出しなど、しないんですけれど、大好きなトオルちゃんが一緒だと、どうにも浮き足立つようで。子どもみたいですね。
『かき氷はないけど、レモンのシャーベットなら、あるわよ』
と、ジュンコ。
『お、さすがジュンちゃんだ。気が利くねぇ。じゃあ、それも2つ』

 

トオルちゃんはひとくち食べると
『三つ星レストランのデザートにも引けを取らないですよ、これは』
と、大絶賛してくれます。
喉がゴロゴロと鳴ります。相棒が褒められるのは、やっぱり嬉しいものです。
『いやぁ、まったく。ジュンちゃんの腕は、相当なものですよ。俺が見込んだだけありますよ』
まったく、お父さんは。

 

コーヒーのおかわりをする頃にはお父さんも少しは落ち着いてきたようで、真面目な様子でトオルちゃんの百貨店での催事の話を始めました。新蕎麦が出るタイミングでお弟子さんが更科そばの『イートインコーナー』を任されることになったようです。

『おかげさまで、あいつにも一国一城の主の気分を味わわせることができますよ』
と、深々と頭を下げています。
『いや、ご本人の努力の賜物でしょう。しっかり更科そばの繊細さを体得されましたね』
お父さんは感極まった様子で、なんとかの目にも、というやつですね。まあ、お蕎麦屋さんのひとり娘さんは、家業を継ぐのを避けて、遠い町で職に就いてしまったらしいので、お弟子さんを可愛がるお気持ちも解らなくはありませんが。

『最高の場所を確保しましたから、楽しみにしていてください』

トオルちゃんも自信たっぷりに言っています。

 

しばしばお弟子さんの打ったお蕎麦をいただいているジュンコと私も、このところの進歩には目を見張っています。この前は江戸時代の料理本を繙いて、そこで知った手法を参考に蕎麦つゆのレパートリーを増やしていましたよ。来月の催事、私たちはきっとトオルちゃんから良い報告を聞くことができるでしょう。そう期待しつつ、私はちょっとだけ寝ることにしましょう。

 

 

サトルさんとモンブラン 63

カラカラと引き戸が鳴り、細かい水玉模様のワンピースにさらりと薄手のカーディガンを羽織ったサワコさんが入ってくる。この涼やかな佇まいが残暑の厳しさを和らげてくれる。
『いらっしゃいませ』
『おはようございます。フルーツサンドとモカブレンドをポットでください』
サワコさんは座ると、めずらしく、すぐにグラスの水に手を伸ばし、半分ほど飲んだ。
『毎日、暑いわね。今年は立秋のあとの方が暑さを増しているような気がするわ』
『まったくです』

 

この店のフルーツサンドは日によって、中の果物が変わる。きょうは我らがラグノオ、タツオお手製の和梨のコンポート入りだ。
『お待たせしました。サンドイッチだけでも、秋の気分をお楽しみください』

サワコさんは
『やっぱり、サトルちゃんとタツオくんのゴールデンコンビは素敵なものを提供してくれるわね』
と、勿体ない程の褒め言葉をくださった。
『恐れ入ります』

『そうだわ、サトルちゃん、かぼちゃなんて、食べられる?』
『ええ。天ぷらなんかはわりと好きですよ』
サワコさんは手のひらに載る程の小さな箱を俺に差し出した。
『和楽堂さんの今月のお菓子なの。かぼちゃの葛まんじゅう、かぼちゃ餡の中心のカラメルソースがアクセントなんですって』
和楽堂の名前につられて、つい『開けてもいいですか?』と、聞いてしまう。
『どうぞ、どうぞ』

おじさんの『ナウいお菓子じゃない方のお菓子』は、ひとつひとつが輝きを放っているのだ。

 

箱の中には向日葵とも、色づき始めた銀杏並木とも、どちらにも解釈し得る黄金色のかぼちゃ餡が、吹き硝子を思わせる葛に包まれて3つ、並んでいた。おじさん、やっぱり、こっちが本当の姿なんでしょ?

『ありがとうございます。遠慮なく、頂きます』
サワコさんは、にこりと微笑んだ。

 

『家ではね、これをお抹茶で頂くの。お作法も何も知らないんだけれどね』
意外だな。ヨシコと違ってお茶やお花など、嗜んでいそうな人なのに。俺の心の声に答えるかのように、サワコさんは高校時代のこんな話を始めた。

 

当時、10代の少女向けに書かれた軽快な文体の文芸誌が人気だった。サワコさんは高校の茶道部に所属する主人公が登場する物語を、毎号、楽しみにしていた。元々、和菓子も好物だったこともあり、自分も茶道部か文芸部に入部しようと思い、見学に行ってみたそうだ。茶道部の心地よい静けさ、小説と同じだわ。と、入部を決めかけた時に『ぐーっ』とお腹が鳴ってしまったのだという。先輩たちは赤面する新入生を懸命に宥めようとしてくれたそうなのだが、恥ずかしくて、逃げるように部室を後にしたのだった。以来、廊下で茶道部の生徒を見かけるたびに、隠れたり、目を合わさないように俯いたり、と窮屈な思いをし続けた、との事だ。

『この齢になると、それぐらいの事で、って思えるんだけど当時はね』
と、サワコさんは笑った。

『10代あるある、ですね』

俺にだって、覚えがある。

 

サワコさんがバッグから、便箋とモンブランの万年筆を出して手紙を書き始めたので空いたサンドイッチの皿を下げた。結局、高校では文芸部に所属し、当時の先輩とは今でもずっと文通を続けているのだという。サワコさんがペンを走らせる音が耳に心地いい。

 

ガラガラと引き戸が鳴り、今度は妹の登場だ。

『お疲れー。サトルちゃん、ホット。あとさー、スモークサーモンのサンドイッチ。それからさ、万年筆貸してよ』

『ずいぶんゆっくりする積もりだな。店はいいのか?』

『うん、世間さまがお盆休みの時はね、意外と』

『そうか。ほら、万年筆。折るなよ』

『サンキュー。だけどさ、折るわけないじゃん』

 

ヨシコはエプロンのポケットから絵はがきを1枚取り出して、それに書き始めた。万年筆で文字を綴る音は、ヨシコのものでさえ、それなりに味わい深いものだな。師匠と慕っている中学時代からの親友のお母上が、お手製の梅酒をくれたので、そのお礼状だそうだ。

『後で、サトルちゃんとタツオくんにも飲ませてあげるね』

俺も、和楽堂のおじさんの傑作を2人に。本気を出したおじさんは駄洒落を飛ばしてへらへらしているあのひとと、同一人物とは到底、思えないということをご覧に入れようではないか。

 

 

栞さんのボンボニエール 71

きょうのタケオさんはさっくりとしたリネンの混ざったサマーニットを着ていた。
『タケオさん、そのニットもご自分で?』
『うん。もう20年以上前に編んだものなんだけどね』
お教室に着て行ったら、生徒さんたちが『作り方を教えて欲しい』と言ったそうで、夏の課外授業と題して3日間集中の講座を急遽、タケオさんのアトリエで開催することになった。その打ち合わせが思いのほか長びき、タケオさんはここでお夕食を簡単に摂ることに決めた。

『栞ちゃん、このトマトのグラタン、いいね。家だとつい、冷たい麺類に頼りがちになっちゃうけど』
そうなのよね。暑いときの
メニュー作り、結構迷うのよ。冷たいものでお疲れ気味のお客さんのお腹を温かいメニューで労りたい、という気持ちは、おせっかいなのかしら? という葛藤もあったりして。

 

カラン、コロンとドアベルが鳴って、入って来た人を見たタケオさんと私は思わず顔を見合わせた。
『いらっしゃいませ』
猫ちゃんのお顔が大きくプリントされたTシャツを着たトモノリさんは当たり前のように、タケオさんの隣に座った。
『なんかね、今、ぜーったいタケオさんも来てるんじゃないかって、思ってたんだよねー』
『そう? お久しぶり』
と、タケオさんは答える。少しだけ、戸惑いの色が滲んでいるみたい。元々、トモノリさんには大好きな猫ちゃんの話題になると、大人の男の人らしからぬ話し方をするような癖があったけれど、きょうの話し方はテレビの女装タレントさんを思わせるような感じ、だったのだ。ご来店いただくのは、3週間ぶり…以上かもしれない。
『栞さん、いつもの玉子サンドとブルーマウンテンをください』
『かしこまり、ました』
トモノリさんはグラスのお水をひと息に飲み干した。氷がカララン、と涼しげな音をさせる。お水を注ぎ足そうとピッチャーに手を伸ばすと、タケオさんがピッチャーを受け取って、トモノリさんのグラスに注いでくれた。
『タケオさん、すみません』
タケオさんは何も言わずに静かに微笑んだ。トモノリさんは、またグラスをひと息に空けた。タケオさんはまたグラスにお水を注ぐ。おかげさまで私は、コーヒーを淹れる手を止めずにいられた。


『玉子サンドとブルーマウンテン、お待たせしました』

トモノリさんは何も言わずに『むしゃむしゃと』玉子サンドを食べ続け、お皿を空にすると、少しだけぬるくなったブルーマウンテンをひと息に飲んだ。そして
『ふう。やっぱり、これをいただかないと、調子が出ないものだね』
と言って笑った。ワイシャツにネクタイ、という姿以外は今までどおりのトモノリさんが現れた。タケオさんが安堵の表情を見せた。トモノリさんは手に提げてきた猫ちゃん柄のトートバッグから猫ちゃん模様の封筒を取り出し、タケオさんと私に
『たこパの招待状にゃ。お受け取り、くださいませにゃのだ』
と言って差し出した。

『ありがたく、お受けしますにゃ』
タケオさんはトモノリさんの口調に合わせて、そう答えた。

そして招待状に書かれている住所を見て
『あれ? トモノリさん、住所が変わった?』
と訊ねた。
『うん、住所がね、変わったのはね、僕だけ、なんだけどさ』
トモノリさんはテレビの会見で、女優さんなんかが左手の薬指に輝く、大きな宝石のついた指輪を見せるような仕草を、して見せた。そこには、長年嵌められていた筈のプラチナの指輪が見えなかった。


『うん、つまりね、そういうこと、なんだよね』
私は言葉が見つからなかった。トモノリさんはまた、グラスのお水をひと息に飲んで
『栞さん、玉子サンドとブルーマウンテン、お代わりください。つくづく、僕の体は、このお店のごはんで出来ていたんだなぁー、にゃんて、ね』

と、言って
『これからは僕も、2人と仲間、だね。独身貴族、最高だにゃー』
と、言葉を続けた。それを聞いたタケオさんは肩をすくめて
『仲間、じゃなくって、僕たちは、師匠、だよね? 栞ちゃん』
と言った。
『そうよー。歴史が違うのよー。これから、ここでルーキーを特訓しないと』
トモノリさんは笑って
『よろしくご鞭撻のほどを』
と、深々と頭を下げた。


タケオさんは厳かに
『手始めに、これを嗜み給え』
と鞄から『ドラマ・おばさん刑事』のDVDボックスを取り出した。
『タケオさん、それ、いつも持ち歩いているんですか?』

『いや、きょうは偶然さ。同じカルチャーセンターの英会話教室の講師の方が、同好の士、なんだ』

『師匠! 謹んで、拝見いたしますにゃ』

『うむ』

トモノリさんのトーンに合わせて口調を自在に操ることが出来る『タケオ王子』は、やっぱり、あのマリコさんの甥御さんなんだなぁ。ボンボニエールの中に、マリコさんがタケオさんに託してくれた老舗果物店の綺麗な飴があったことを思い出す。涼やかなシャインマスカットの飴。マリコさんは昔から、好んで葡萄を食べていた。生命力の象徴、とも言われることがある葡萄の果汁を惜しみなく使ったこの飴をちょっぴり白髪の増えた我らがルーキーに。つたない私の言葉よりも、励ましになるであろうことを信じつつ、愛らしい猫ちゃんの描かれたお皿に載せて。