この店をすっかり任されることになる前には、オーナーのマリコさんと長年付き合いのある職人が焙煎したコーヒー豆を使っていた。マリコさんが経営している他の20店舗以上は今でもその豆だ。同じ生豆でも、誰が焙煎するかで全く違う味わいになるのだから面白いものだ。俺はブラジルはいつも中煎りにしているが、マリコさんのところの職人は浅煎りと中深煎りの2種類を用意し、各店長がそれぞれの好みで使い分けていた。はじめはこの店の客だった俺にマリコさんがこの浅煎りを『サービス』してくれた。聞かされなければブラジルだとはわからなかったと思う。生豆と腕によほどの自信がないと、この選択肢は難しいだろうな。この豆と出会っていなければ、俺が焙煎に興味を持つことはなかった、と言ってもいい。
毎度おなじみの宅配便のフジワラ君が
『じゃあ、大事なお荷物、確かにお預かりします!』
と、猫のマークが付いた帽子に手を添えた。マリコさんに誘導されたかのように始めたコーヒー豆の焙煎だが、おかげさまで気に入ってくださる方もいて、店で使う以外に地方発送までさせていただいている。きょうフジワラ君に託した荷物の中には、わが友トオルちゃんへのものも含まれていた。今朝、店に着いた俺を待ち受けていたものはトオルが昨夜、おそらくはほろ酔い加減で寄越したであろうファックス注文だった。コーヒー豆の種類と数量があいつの少し癖のある文字で、うねうねと書き連ねてあった。注文書の余白には近況が綴られていて、百貨店勤めのあいつは大型の催事を控えて、休日返上で駆けずり回っているらしかった。『社畜』はお互いさまだな。
トオルとは、中学2年の時にクラスが一緒だった。黒板にお世辞にも上手とは言えない絵で、ひとコマ漫画のようなものを描き散らかしてはよく、先生に黒板の掃除を命じられているような奴だった。その名残が注文書にも、しっかりと現れていた。最近、出張先で食べたトマト味の蕎麦つゆがたいそうお気に召したらしく、トマトを両手に持った自画像が添えられていた。トマト味か。ちょっと食べてみたい気もする。トオルはこの田舎町からはほど遠い都会で暮らしているので、直接会うのは年に1度ぐらいなのだが、電話なんかではよく話すことがある。中学2年当時はおっさんになってから、あいつとこんなに関わり合うことになろうとは思いもしなかっただろう。
ガラガラと引き戸が鳴る。ヨシコの休憩時間か。
『あー、お腹空いた。サトルちゃん、ホット。あとチーズトースト。胡椒、多めにしてね』
『おう』
ヨシコはグラスの水をひと息に飲んだ。
『サトルちゃん、モンブラン、まだある?』
『ああ。あと、3個だな』
『じゃあ、他のケーキは? 5個欲しいんだけど』
『いま食うのか?』
『なわけないじゃん。義兄さんに頼まれたのよ』
サトルちゃんのお茶目な冗談はヨシコには通じなかったようだ。
『種類を混ぜてもいいなら5個にできるけど』
『あー、じゃあ、やっぱりタツオくんのお店まで行かないと無理か』
お義兄さんがご近所の人からトマトをたくさん貰ったのだという。その人も親戚の家庭菜園でとれたものが大量に届き、多すぎて食べきれないのだそうだ。家庭菜園、やたらと上手な人がいるものだ。うちの奥方さまの知り合いにもそういう人がいるらしく、先週の夜、テーブルの上に『パパ、おつかれさまです。冷蔵庫にサラダ、あります』
とメモ書きがあり、めずらしいこともあるものだ、と開けてみると、ビニール袋に丸のままの胡瓜が3本と賞味期限が迫った未開封のマヨネーズのチューブが無造作に置いてあった。サラダ、ね。以前にも似たようなことがあったような。ご本人はご友人と三つ星レストランでディナーだとか。せめて、胡瓜は野菜室に入れてくれよ、と思い野菜室を開けると、そこにも新聞紙に包まれた大量の胡瓜があった。翌朝ご本人に訊ねると、知人の家庭菜園のものだ、との事だった。もし、俺に英国紳士の友人がいたら届けてやりたい程の量だった。
『ちょうど、タツオの店に電話しようとしていたから、ケーキ同じの5個寄せてくれるように頼んでみようか?』
『あー、ありがとう。助かるー』
トオルから、またタツオの焼き菓子の詰め合わせを手配して欲しい、と頼まれたのだ。まだ1度も対面したことのない2人だが、すっかりお互いをリスペクトし合っているようだった。電話口でタツオが『他ならぬトオルさんからのご注文なら、俺、めっちゃ、はりきっちゃいますねー』なんて、声を弾ませていた。
『義兄さんってね、トマト、湯むきしないと食べない人なの。まあ、確かに湯むきしたトマトって、美味しいよね』
俺の頭の中に美しく盛りつけられトマトを優雅に食べているお義兄さんの姿が浮かんだ。と、同時にわが家の賞味期限ぎりぎりのマヨネーズと大量の胡瓜も浮かんできて、その残像を追い払うのには、相当な努力が必要とされたのだった。