ことのはカフェ

カフェに纏わる由なしごとをそこはかとなく綴ります。

栞さんのボンボニエール 68

トモノリさんは好物の玉子サンドのお皿を空にすると猫ちゃんのような伸びをして、ブルーマウンテンをひとくち飲んだ。そして、壁に掛かっている猫ちゃんの形の時計を見詰めて何か考えているようだった。タケオさんがその様子をひとつ空けた隣の席でトラジャを飲みながら横目で見ている。
『栞さん、そのにゃんこ時計ってさ、先週はなかったよね?』
『ああ、これはね…』
言いかけた時、タケオさんが『ふっ』と笑う。トモノリさんが不思議そうにタケオさんを見る。


『タケオさん、このたびは大変ご足労さまでした』
『どういたしまして。いつものことで慣れているよ』
トモノリさんはタケオさんと私の顔を交互に見て、ますます訳が解らない、といった様子だ。トモノリさんが言う『にゃんこ時計』が掛かっている場所に元々あったのは文字盤にさりげなく白い猫ちゃんが描かれた端正なデザインのものだった。お客さんから、その時計を『是非に譲ってもらえないか』というお声があったのは5日前のことだ。このお店にあふれている猫ちゃんグッズの大半はオーナーのマリコさんが国内外を問わず『愛猫センサー』をフル稼働させて蒐集したものばかりで、譲って欲しい、とか、作り手さんを紹介して欲しい、というお問い合わせがあるのはしばしばだった。

 

マリコさんはそういったお声には極力、応じようとする人だった。今回の時計のことも、お伝えすると『古いものだし、値段なんか忘れちゃったわ。お代はいいから、差し上げて』と即答した。それから『だけど…店だって時計がないと、困ることもあるわよね。すぐに代わりのものを用意するから、それまで待って頂けると助かるわ』と続けた。マリコさんとのやり取りがあった次の日の午後、タケオさんが大きな紙袋を片手に姿を現した。私はマリコさんのパターンには慣れていたつもりだったけど、本当はまだまだだったんだな、と思った。と言うのも、いつもはホットコーヒーのタケオさんが『水出しコーヒー』を注文したので『タケオさんが冷たいコーヒーなんて、外はよほど暑いんですね』などと、呑気な言葉を掛けてしまったのだ。タケオさんは笑いながら『暑いのは気温じゃなくって、マリコ・フィーバーの方だよ。おかげでこっちまでヒートアップさせられてね』と、手に提げてきた紙袋を私の前で、ひらひらさせて『新しい時計、持ってきたよ』と言った。『すみません、タケオさん。おいそがしいのに』慌てて頭を下げる私には
『栞ちゃんは、何も気にする必要はないよ』と言ってくれた。マリコさんの『すぐに』を支えているのはいつも、タケオさんなのよね。ボンボニエールから、以前に『美味しい』と気に入ってくれたジャンドゥヤのチョコをお渡しして労う。

 


トラジャをひとくち飲んで、タケオさんは
言う。
『しかし、あの人はさ、まるで狙ったかのように、おばさん刑事の放送時間に電話をかけてくるんだな』
隣で聞いていたトモノリさんが、ぷっと笑った。マリコさんからの電話の第一声が
『お楽しみのところ、悪いわね』で、その後に『ドラマはちゃんと録画しているから、ちょっと頼まれてくれないかしら?』
と、前置きをして『店で使う掛け時計をマンションまで取りに来て欲しい』のだと言ったそうだ。


『その夜はちょうど、雑誌の撮影用の作品を仕上げないとならなくてね。翌日の昼以降なら、ということで調整したんだ』
そのことに対するマリコさんの返事は
『あら、あなた夏でも意外と仕事してたのね』だそうで、ニット作家は秋冬に集中的に仕事をするものだと思い込まれていた、ということがわかった。トモノリさんは2杯目のブルーマウンテンを飲みながら
『あのチャーミングなにゃんこ時計は、タケオさんのご足労の賜物だったんだね』
と、タケオさんに深々と頭を下げた。そして、まじまじと時計を見詰めて

『お店のは、とら猫ちゃんだけど、三毛ちゃんのデザインはないのかにゃー?』

と、呟いた。タケオさんは

『三毛猫だけじゃなく、白猫や黒猫のデザインもあったよ』

と答えている。マリコさんのマンションに時計を取りに行った時、たくさんの『候補者』が整然と並んでいたらしく、このシリーズの全ての柄のものと、猫ちゃんの尻尾が振り子のようにゆらゆらと動くデザインのものが3種類あったのだという。マリコさんは『取りに来てくれたご褒美に、どれを店に置くかを、タケオに選ばせてあげるわ』と言ったそうだ。

『そんな事、僕にとってはご褒美でも何でもないんだけどね』

と、タケオさんは肩をすくめる。

トモノリさんはケイタイ片手に『にゃんこ時計』の検索を始めて

『あ、ホントだぁ。三毛ちゃん、白ちゃん、黒ちゃんもいるー』

と、語尾にハートマークが付きそうな口調で言って目尻を下げている。

『三毛ちゃん、黒ちゃんお買い上げー』

会社では敏腕の経理課長さんである人が、10代の女の子のようにうきうきしてネットショッピングをしている様子はちょっぴり不思議な世界だわ。猫ちゃんの愛らしさの為せる技、ということかしら。その後もトモノリさんは語尾を『にゃーにゃー活用』させながら、猫ちゃんグッズショッピングを続け、タケオさんと私はそっと見まもることにした。

 

ティピカちゃんねる 63

皆様、ごきげんよう。ティピカです。わが友トオルちゃんが京都旅行から戻ってきて、久しぶりのご来店です。お正月以来、たまっていた休暇を10日程まとめての旅行だったようです。
『京都というところは、喫茶店が本当に多いですね。あちこち、ずいぶんと回りましたが、やっぱりこちらは落ち着きますね。ホッとしますよ。なあ、ティピカ』
ニャー『そう言っていただけると私も嬉しいですよ』
『あら、京美人に囲まれてパラダイス、じゃなかったの?』
と、常連さんのルリコさんが茶化しています。


『いやあ、その京美人ですが、ひどい目に遭いましたよ』
京都初日の夜、わが友は大はりきりで、女性バーテンダーのいるお洒落なバーへと繰り出したそうです。こぢんまりとしたそのお店は地元の女性たちのあいだでも好評らしく、飲んでいると、着物姿の若い女性の2人連れが入ってきました。
『若い女性が日常的に着物をさらりと着こなしているなんて流石は京都だ、と思いましてね』
既に2杯目を飲んでなかなかによい心地になっていたトオルちゃんは格好をつけて、お2人にご馳走しようとバーテンダーさんに
『そちらのおにょーさまたちに何か1杯ずつ、差し上げてください』
と言ったそうです。


それまで、ジュンコのような淡々とした態度で接客していたバーテンダーさんがヨソモノらしき中年男性の放った『おにょーさま』という未知の単語に堪えかねてクスクスと笑い出し、当の着物のお嬢さんたちまでも『おにょーさまって、何なのぉー?』と、大口を開けて笑ったそうです。
『お姉さまとお嬢さまが混ざって、おにょーさま、になっちゃったんですよ。いや、全く、穴があったら入りたいとは、こういうことを言うんですね』
ルリコさんとジュンコも顔を見合わせて笑い始めました。
ニョー? 『トオルちゃん、いくら何でも、おにょーさま、はないでしょうに?』
『おいおい、女性陣はともかく、ティピカぐらいは俺の味方になってくれてもいいんじゃないのか?』
ニャー、ニャー『まあまあ、拗ねないでくださいよ』
慰めるために、トオルちゃんの膝の上へ。


『その後、グラスに残っていた酒を何とか空けて、逃げるようにホテルに戻ったんですがね、もう、酒を味わうどころじゃなかったですよ』
私の背中をわしゃわしゃと撫でながら、トオルちゃんは続けました。ルリコさんはにやにやして
『お猿さんも木から、ってやつよね? いい経験をしたじゃないのよ。トオルちゃん』
『ルリコ姉さん、せめて、筆のあやまり、と言ってくれませんか?』
『ダメダメ。修行が足りないわよ』
トオルちゃんは悄然としてキリマンジャロをひとくち飲みました。そして、気を取り直したように
『そうそう、皆さんにお土産があるんですよ』
と、隣の椅子に置いてあった紙袋をごそごそと探り始めました。

 

『これはティピカに。厚削りの本枯れぶしだよ』
ニャアー『これは、これは。お心遣いに感謝です』
『トオルさん、すみません。よかったわね、ティッティ。早速戴きましょうか?』
ニャゴニャゴ『愚問ですよ。ジュンコ君』
ジュンコが袋を開けて一片をほぐし始めました。トオルちゃんはジュンコから、ほぐしたものを受け取り、私に差し出します。ゴロゴロ、と喉が鳴りました。
ウニャ、ウニャ『いやあ、さすがは京都の老舗。風味絶佳、ですね』
トオルちゃんも嬉しそうに私の頭を撫でてくれます。

『女性陣には淑女のマストアイテム、お懐紙です。お2人に合いそうな柄のものを3種類ずつ選んで来ましたよ。こっちがジュンコさんので、こっちがルリコ姉さんです』
『開けてもいい?』
『勿論です』


ルリコさんが包みを開くと、中からはコーヒー豆の模様、バラの模様、そして源氏香図が透けて見えるものの3種類が。
『さすが、トオルちゃん。私の好みを完璧に把握してくれているのね。ジュンコさんのも見てみたいわ』
『じゃあ、私も見せていただきますね』
と、ジュンコ。包みを開けて『あら』と、目を丸くしています。トオルちゃんはにっこりとして
『ビンゴ、ですか? ジュンコさん』
と言います。
『はい。ありがとうございます』
1つ目のコーヒー豆の模様は、ルリコさんとお揃いです。2つ目は猫のイラストが描かれたもの。そして3つ目の可愛らしい苺の模様には、私も驚きました。トオルちゃんはどうしてこの無愛想なオバサンが見かけに寄らず、苺模様をこよなく愛していることを見抜けたのでしょうか。

『お菓子もありますよ。日本全国、どこの百貨店にも出品したことのない一品です。お2人とご一緒に堪能したくてね』

 

トオルちゃんはそう言って、紙袋から綺麗な和紙の箱を出しました。
『あら、可愛い。もなか?』
『この小ぶりなサイズが何とも。いつかは、うちの百貨店でもお取り扱いできないか、と思っているんですがね』
『トオルちゃんはプライベートの旅行でも、常にアンテナを張っているって訳よね』
『悪友からは社畜だ、と笑われていますよ。そいつも喫茶店の仕事をしているんです。俺に言わせると社畜はお互いさまなんですけどね』
長年の付き合いの私だけにしかわからない程の微笑みを浮かべながら話を聞いていたジュンコが
『あんこによく合うブレンドがあるんです。お2人にご馳走させてくださいね』
と、ゆっくり豆を挽き始めます。静かに豆を挽く音に耳を傾けていたら、眠くなってきましたよ。私はちょっとだけ寝ることにしましょう。

 

サトルさんとモンブラン 59

世間さまが仕事の後のジョッキを傾ける頃合いになると、流石に俺も腹が減ってくる。奥方さまはいつものようにご友人の『推し活』とやらに便乗してバラの花が見頃であろう金沢へご旅行中だ。晩飯用にヨシコの店のおにぎりを予約しておこう。それにしても…サトルちゃんが我が家で温かい夕食を食べた記憶は何十年前のものであろうか?

 

俺の心の声が聞こえたかのようなタイミングで引き戸がガラガラと鳴り、ヨシコが現れる。
『お疲れー。サトルちゃん、ホット』
『おう。きょうはずいぶん遅いな』
『姉さんが風邪でね、手伝いに来てもらえなかったのよ』
『そうか、それは大変だったな。サワコさんの具合はどうだ?』
『さっき電話がきて、あしたは出られるから、って。無理しなくていいのに』
そう聞くと、おにぎり頼み難くなったぞ。まあ、たまにはコンビニ弁当もありだろう。便利な時代だ。ヨシコはコーヒーを一気に流し込むと、すぐに自分の店に戻って行った。俺の記憶ではあいつが風邪をひいた、というのは小学校以来、ないな。

 

 

時々、仕事の後に『自分へのご褒美なの』と言って、モンブランを食べにくる若い女性がいる。きょうはいつもより、ご来店が遅かった。プレゼンの資料づくりで残業したのだ、という。こういう正当なご褒美は、微笑ましい。だけど、うちの奥方さまが『ご褒美』と称して次々とお求めになる新作ブランドバッグ、あれは一体何に対するご褒美なのか。たまには旦那のメシぐらい、作ってくれよな。さて、看板を片付けて弁当を買いにコンビニへ、と思っていると引き戸がガラガラと鳴る。またヨシコがきたのかと思いきや、入ってきたのは親父の幼なじみの和楽堂のおじさんだった。


『よう、サトル。きょうはお前に回らない寿司でも食わせてやろうと思ってな』
『本当? じゃあ、急いで後片づけをするよ』
『いや、急がなくてもいいぞ。寿司なら、もう、ちゃんとここに用意してあるからな』
そう言うと、おじさんは手に提げてきたスーパーのレジ袋から30%引きのシールが付いたパックを2つ出した。回らない寿司、というのはこれのことか? 俺の顔を黙って見ていたおじさんは言う。
『お前、何か言いたそうだな。いいから、何か皿を貸せ。これだって、回ってないだろうが。ほら、ガリもあるぞ』
と、澄ましたものだ。

 

有田の青絵の皿に入れた醤油を北寄貝の握りにそっとつける。
『あ、意外と美味いね』
おじさんは得意げに
『な、そうだろう? 最近のスーパーをなめたらいかんぞ』
と鼻を鳴らした。確かに、この値段でこれだけのものを提供する企業努力はあっぱれだ。
『この小鰭も乙だぞ。どんどん食え』

『ご馳走になっておいてアレだけど、おじさん、どうしたの?』
おじさんは『あぁ?』と言ってから、こんなことを話し始めた。

 

最近のおじさんの1番のヒット作である『しょこら・かすてら』の売り上げが、うなぎ登りだそうだ。店に来るお客さんたちが口々に『喫茶店の店長の奥さんから戴いて美味しかった』と言って、買って行くのだという。しょこら・かすてら発売当初、確かに俺は1度奥方さまにも献上したことがある。その時はただ『これ、美味しいね。タツオくんのお店の?』と訊かれた程度だった。和楽堂のだ、と答えると『あら、そう』なんて言っていた。それが、しょっちゅう手土産だのお茶請けだのに愛用しているというのだから驚きだ。

 

 

おじさんは食後のコーヒーを飲みながら
『まったく、お前の女房はよく出来ているよ。お前には勿体ないぐらいだな。たまには指輪のひとつも買ってやらないと。お前はそういうことに疎いからな』

などとおっしゃる。いや、いや、いや。おじさんは知らないだろうけどさ、俺がわざわざ買ってやるまでもなく、あのお方は『毎日がご褒美の日』のようなお方で有らせられるのだよ。やれやれ、知らないということは。

 

しかしながら、奥方さまの行動が元で意外な『ご馳走』を戴くことになろうとは。
『回らない寿司』こと、スーパーの寿司もたまにはいいものだな。この後、俺も寄ってみようか。どうせ、息子も晩飯はまだだろう。男2人、寿司をつまみながら飲むビールも悪くはあるまい。

 

お父さんと300円のコロッケ

カラン、コロンとドアベルが鳴って、入ってきた顔を見た瞬間、私は驚きのあまりに大声を出さずにはいられなかった。
『お父さん?!』
『よう』
お客さんたちが一斉に、私たちの方を向く。
『すみません、大声を出しちゃって』
自分でも、顔が赤くなっているのがわかるぐらいだ。父も
『慌てものの娘ですみません。いつもお世話になっております』
と、頭を下げる。お客さんたちが『どういたしまして』というようにやわらかい微笑みを浮かべてくださる。いいお客さんばかりで、よかった。常連さんのアカネちゃんママが近付いてきて
『お父様、はじめまして。栞ちゃんにはいつも美味しいコーヒーやお料理で、元気をいただいています』
と、挨拶してくれた。
『恐縮です。いつも娘が、ありがとうございます』
と、父もにこやかに言う。
アカネちゃんママは、私にウインクすると、また自分のテーブルに着いた。


父は手付きのビニール袋を
『あとで食べなさい』
と、私に差し出した。
『駅前の野菜コロッケだ。お前さん、好きだろう?』
『うん、ありがとう』
『兄さんの家で飲んでいるコーヒーと、芋サラダのサンドイッチも貰おうか』
『かしこまり、ました』
子どもの頃の授業参観みたいな気持ち。


このあいだの母の日に、兄一家が遊びに来たのだが、父はパークゴルフの大会で留守にしていたそうだ。姪にお小遣いをやりそびれたからと、その夕方、スープの冷めない距離に住む兄の家に出向いたという。そこで義姉が出したコーヒーが大層お気に召したようだ。義姉は笑って『栞ちゃんのお店のコーヒーですよ。うちでは、これしか飲まないんです』と、言ったそうだ。

『それで、パークゴルフはどうだったの?』
『敢闘賞だ』
と、ピースサインをしながら笑う。あまり上手な方ではない、ってことよね? 敢えて言わないけど。


ポテサラサンドを食べながら、父は言う。
『兄さんもよく言っているが、本当にお袋のサラダに似ているよな』
『まだまだ、おばあちゃんには及びません』
私の返事に同意しているのか、いないのかあやふやな態度でにやりとして、こう言葉を継ぐ。
『物の少ない時代に、何とか子どもたちの喜ぶものを作ろうとしてくれた人だったからな。俺が子どもの頃には、ゆで玉子の代わりに魚肉ソーセージが入っていたんだ』
『え? それ、食べたことないわ』
『そうだろうな』
『この野菜コロッケも、おばあちゃんのサラダとどことなく、似ているわよね。お芋がほくほくしていて』
『そうかもしれないな。お前さんたちが小学校の頃は300円で4つ買えたんだ。だけど、今は2つだ。先代の親父の機嫌がいいときなんかは、よく、ひとつおまけしてくれたものだよ』

 

この野菜コロッケは兄も私も大好物で、父が仕事のあとに買ってくるのを楽しみにしていた。
『うちは4人家族だろう? 5つあって、兄さんとお前さんが喧嘩になるといけないから、こっそり花屋の犬にひとつ食べてもらっていたんだよ』
『へー、知らなかった。そんなことがあったのね』
『犬っていうのは、利口なものだな。俺の顔を、ちゃんと覚えていて、寄ってくるんだ。あ、コロッケおじさん! って。コロッケがない時でも愛想のいい可愛いやつだったな』
そう言って、コーヒーをひとくち飲んだ。

『しかし、このコーヒーは美味いな。俺は緑茶ばかり飲んでいたけど、たまにはコーヒーもいいもんだ』
『誰が淹れたと思っているの?』
『ははは。ごもっともだ。この豆を300g貰おうか。母さんにも飲ませてやろう』
『売り上げにご協力、ありがとうございます』

 

 

父が飲んだのと同じブレンドを淹れて、伝票の束を横に置く。アカネちゃんママのぶんは父がこっそり支払っていった。それを知ったママは、ずいぶんと恐縮していたけれど。視線を感じて窓の方を向くと、外にいた文房具屋さんのマサヨさんと目が合う。立ち上がって、ドアを開ける。
『栞ちゃん、まだ、大丈夫?』
『もちろんよ』
ちょうどよかった。父がくれた野菜コロッケ、一緒に食べたかったのよ。

マサヨさんお気に入りのブラジルの横に、軽くあたため直した野菜コロッケを載せたお皿をそっと置く。
『コロッケ?』
『そう。食べてみて』
『あ、美味しい』
よかった。お野菜だけのこのコロッケはお店でも、かにクリームコロッケなんかに比べると『補欠選手』のような扱いなんだけど。

 

『お芋と人参、それと隠元ね。椎茸も入っている?』
『大正解。お塩でね、お野菜の旨みを引き出しているの。子どもの頃から兄と私の好物だったのよ』
『何だか、栞ちゃんの作るポテサラに似てる。やさしいお味だわ』
『おそれいります。お店の先代のお父さんがね、どうしたら、子どもたちにおいしくお野菜を食べさせられるだろう? と、頭を捻ったそうなの』
『確かにね、うちの子も人参も椎茸も苦手だったわ。でも、これなら食べられたかも』

 


2杯目のブラジルを飲みながら、マサヨさんが言う。
『栞ちゃんのお父さん、お会いしてみたかったな。栞ちゃんと似た感じ?』
『うーん、どうかしら? 目もとが似ている、って言われることはあるわ。だけどね、話し方なんかは兄とそっくりなの。2人のやり取り聞いてると、可笑しくて』
『あはは、何だか微笑ましいわね』
『たぶん、うちの父、これからちょこちょこ来るような気がするわ。散歩にちょうどいい距離だし、あの齢になって初めてコーヒーの楽しさに目覚めたみたいなの』
『じゃあ、きっと、お目にかかる機会もあるわね』
酒豪のマサヨさんと父は話が合いそうだ。緑茶だけじゃなく『おちゃけ』も大好きな人だからね。

 

栞さんのボンボニエール 67

焼きたてのワッフルをテーブルにお届けした時、常連さんのアカネちゃんママに
『ねえ栞ちゃん、マリコちゃんならきっと、いいペットホテル、知ってるわよね?』
と訊ねられた。
『え、アカネちゃんママ、旅行に行くの?』
『息子がね、母の日だから食事に連れて行ってやる、って』
それにしても、常に『アカネちゃんファースト』の方がめずらしい。ワッフルにシロップをかけながら語るところによると、東京にある、なかなか予約の取れない和食の店の予約がようやく取れた、と息子さんから連絡がきたのだそうだ。
『アカネがいるから、最初は断ったんだけど、予約取るの、大変だったんだぞ。母さんは俺と猫とどっちが大事なんだよー、なんて言われたらね。まさか、猫に決まってるじゃないの、とは言えないわよね』
そう言って、アカネちゃんママは舌を出した。うっかりしていたけど、もうすぐ母の日なのよね。

 

数年前の母の日のこと、兄と私が全く同じものをプレゼントしてしまう、という『事件』が起きた。好きなブランドの好きな色のカーディガンを2枚受け取った母は『洗い替えがあって、いいわね』と笑ってくれたけど、兄と私は何だかバツが悪く、それ以来、お互い何をプレゼントするかを事前に報告し合うことにしていた。お兄ちゃん、今年は何にするんだろう? あとで電話してみよう。

 

 

きょうはツナサンドのご注文がいつもの倍ぐらい多かった。お昼のワイドショーで『ツナ缶健康法』でも特集したのかしらね? 『何かを食べただけで、すぐに健康になれる』などという考え方は不自然なのではないか、と若い頃の私に気付かせてくれたのは、ここのオーナーのマリコさんだった。伝票整理を始める前にボンボニエールから、カモミール飴をひと粒。これはマリコさんが甥御さんであるタケオさんに託して届けてくれたものだ。私がここを任されてからは、マリコさんは滅多に顔を出さない。それは私を気遣ってのことなのだ、とは思う。だけど本音を言うなら、たまにはマリコさんのコーヒーを淹れる姿が見たいな、と思っていた。

 

ケイタイが鳴る。兄からだわ。
『ちょうどよかった。私も電話しようと思ってたところなのよ』
『そうか。お前さん、今年は母の日どうするの?』
『お花のアレンジメントにしようかと思ってるの。あと、うちで出してるクッキーの詰め合わせと』
『ふーん、そうか。じゃあ、俺はどうしようか? 贔屓のピアニストの武道館コンサートのDVDを欲しがっていたから、それにしよう』
『あ、それいいかもね。何かひとつぐらい残るものがあった方が』
『そうだ、お前さんのところのクッキーセット、うちにも発送してくれないか? 娘がさ、このあいだのテスト、頑張ったんだよ。だから、そのご褒美』
『ずいぶん、安く済ませようとするじゃないの』
『何だよ。おとーさんは限られた小遣いで、頑張っているんだぜ』
それもそうね。私みたいにお給料を全部、自分のために使えるわけじゃないものね。お兄ちゃん、えらいじゃない。と、心の中だけで褒めてあげた。

 

そう言えば私たちの父も、テストで前回よりもよい点数が取れた時には『敢闘賞だ』と言って、いつもより少しだけ豪華な『おやつ』を買ってきてくれたっけね。駅前のケーキ屋さんのアップルパイ、美味しかったな。兄はチョコレートケーキが好きだった。姪のためのクッキーセットと一緒に、兄にも『敢闘賞』のチョコレートケーキを添えてみようか。そんな考えがふと、心に浮かんだ。

 

ティピカちゃんねる 62

皆様、ごきげんよう。ティピカです。ジュンコと私がこのお蕎麦の名産地に移住し、この私の額ほどの小さな店を始めてから10年以上が経っています。会社員時代、女子たちの『給湯室会議』にはほぼ参加していなかったわが相棒は『かなり異質な生きもの』である、という印象を同僚や後輩たちに与えていたようです。我らがジュンコ姐さんは『給湯室会議』の主要メンバーたちの合言葉であるところの黄色い声での『かわいいー』を発することがありません。だからといって、彼女に何かを可愛いと思う感性がないのだ、という根拠にはならないのです。

 

 

夕べ、ジュンコは薄ら笑いを浮かべながら1年ぶりに使う『すずらんが描かれたカップとソーサー』を手入れしていました。これは普段、店で使っている大正8年創業の老舗の食器メーカーのもので、ジュンコが公式オンラインショップで発見し、その愛らしさに一目ぼれしたものでした。フランスではすずらんが『幸せをもたらす花』であると言われていて、5月1日には相手の幸せを願い、親しい人同士でこの花をプレゼントし合うそうです。その習慣にちなんで、毎年5月1日は店でこの食器を使うことにしているのです。

 

カラン、コロンとドアベルが鳴って開店以来の常連さんであるイネコさんが入ってきました。

『ママ、ティピカさん、おはよう。レモンのケーキ、ある?』

『あるわよ』

『よかったー。きのうの夜から、ずっと気になってたのよー』

この店のレモンのケーキは、ジュンコがコーヒー豆を仕入れているマリコさんから紹介された生産者さんの卵が手に入った時にしか作らないため、月に2度ぐらいしかお目見えしないものなのです。ジュンコは長いお付き合いのイネコさんのために、少しだけ大きめにスライスします。ケーキの上にかけたアイシングがちょうど、すずらんの花のような形に垂れていてコーヒーのカップの模様とよく合いますね。

 

『そうか、5月1日だものね。このすずらんのカップも1年ぶりだわ』

イネコさんは常連さんらしい指摘をします。

『ママとティピカさんだけだから、言っちゃうけど、ララさんが若いときに大好きだった彼氏さんってね、5月1日にフランスで出会ったんだって』

フランスでは5月1日に町のあちらこちらで、すずらんを売っているそうです。お花屋さんだけではなく、子どもたちもどこからか手に入れたすずらんを路上で売ることがあるのだとか。幼い姉妹が小さな手で不器用そうに束ねたすずらんを売っているところで、お2人は出会いました。

 

『ニャー、ニャ!』それはロマンチックですねぇ。

『でしょう? 私が言ってたって、ララさんには内緒よ。ティピカさん』

『ニャ』了解。

イネコさんは満足そうに微笑んで、レモンのケーキの続きを食べ始めました。

 

 

五月晴れの陽気にうとうととしていると、またカラン、コロンとドアベルが鳴ってララさんこと、常連さんのルリコさんが入ってきました。ジャケットの胸元にはすずらんをかたどったブローチが輝いていました。感情がおもてにあらわれにくいジュンコと違って、私は先ほどイネコさんから聞いたお話を思い出して、にやにやしてしまいそうです。ルリコさんは私の表情の変化に敏感ですからね。イネコさんとのお約束を守るために、私はちょっとだけ寝ることにしましょう。

 

サトルさんとモンブラン 58

カラカラと引き戸が鳴り、入ってきたのはこの町の俳句名人、ショウジさんだ。
『いらっしゃいませ。きょうはお早いですね』
『町内会の通学路の見回り当番だったんですよ。子どもたちが、車道に飛び出さないように声掛けをしたりですね』
『そうでしたか。お疲れさまです』
『いやいや、皆さんもしていらっしゃることですからね』
と、謙遜される。全く、頭が下がるよ。
『栗の町ブレンドをいただきましょう』
そう言うと、ジャケットのポケットから小さなノートとモンブランのボールペンを取り出して何かを書き始めた。
『子どもの通学風景というものは、いいものですね。作句のよい手がかりになりますよ』
『そうでしょうね。子どもたちの様子を見ていると、詩心のない自分でさえ、叙情的な気分になるぐらいですもの』
『どうです? 店長もひとつ、お作りになってみては?』
ショウジさんはさらりとそうおっしゃるが、俺にはちょいとばかりハードルが高いぞ。

 


下校途中の子どもたちが、声を揃えて流行りのアニメの主題歌を歌っているのが聞こえる。息子が幼い頃は俺も一緒に見ていて、主題歌も歌うことができたのだが、最近のものには詳しくはない。ただ、今のものはどことなく、小洒落ているな、という印象だ。昔のアニメの悪役が登場する時の効果音のように引き戸がガラガラと轟き、ヨシコが現れた。
『お疲れー。風、強いね。サトルちゃん、ホット』
『おう』
ヨシコは強風で妖怪のようになった前髪を手櫛でさっと、撫でつける。

 

『サトルちゃん、鰆って、食べられる?』

『ああ。魚全般、好きだけど?』

『そう、よかった。義兄さんが知り合いの方から、たくさん貰ったのがあるの。西京漬け、後で焼いて持ってくるね』

そう言うと、ヨシコはコーヒーをひと息に飲んで、また自分の店に向かった。強風は空が暗くなる頃まで続いた。お客さんたちが皆、髪をボサボサにさせてご来店された。

 

夜になって風がおさまり、タツオがデニムのジャケットをさっと羽織った姿で現れた。中に着ているTシャツには筆文字で『春風駘蕩』と書かれている。約束どおり鰆の西京焼きを届けにきて、先にウイスキーなぞを飲んでいたヨシコが声を掛ける。

『タツオくん、お疲れー。やっぱり来ると思ったんだー。面白いTシャツ着てるね』

『どーも、お疲れさまですー。これ、オリジナルなんですよー。今って、ずいぶん簡単にTシャツ作れちゃうんですよねー』

 

タツオが敬愛している横浜の伯父さんが営む和食の店では今時期、この『春風駘蕩』の掛け軸をよく使うのだ、という。

『かくありたいものだと、思いましてねぇ』

タツオよ、俺からは充分に、お前がそう見えているぞ。

『お、西京焼き、ですね?』

ヨシコの前に置いてある皿にタツオの目線が移る。

『タツオくんのぶんも、あるよ』

『あ、嬉しいですねー。西京焼き、最強ですよー』

『絶対、言うと思ってたよ』

『お2人世代の駄洒落好きに寄り添ってあげた俺の優しさ、ですよー』

と、タツオは舌を出す。

 

ここはやっぱり駄洒落で応戦しないとオジサンの沽券に関わるだろうか? いや、待てよ、若者に花を持たせる、というのもひとつか? 俺のそんな腹の内を知らないタツオは西京焼きをあてに、ヨシコがグラスに注いでやったウイスキーを目を細めてちびちびと飲んでいた。