ここの朝一番のお客さんは大概は八百屋さんのお父さんだ。この頃はお父さんにも引けを取らないぐらい早くに猫ちゃん御殿の主、トモノリさんもご来店だ。以前のお家はここからはそんなに近くはなかったのだが、新居はここからも会社からも徒歩圏内ということで、ほぼ毎日モーニングの時間帯とお仕事の後の2回、場合によってはランチタイムにまで来てくださるという上得意さまになってしまった。
『やっぱり、これから仕事っていう時にはコーヒーだよね。スタートダッシュが全然違うよ』
トモノリさんの元の奥さんは圧倒的な紅茶党で、お家にはインスタントコーヒーすら置いていなかったのだという。家事はすべて、おまかせしていた以上は何も口出しはするまい、と思っていたトモノリさんは『コーヒーが飲みたい』とは、ずっと言えなかったそうだ。だけど、それぐらいのことは大抵の女の人は聞き届けてくれるものじゃないかしら? よそさまの事だから、私は何も言うつもりはない。それに、トモノリさんは新しい猫ちゃん御殿での暮らしを心底楽しんでいるようだし。
『タケオさんに借りた、おばさん刑事のDVD、傑作なんだー。栞さんも見せてもらうといいよ。おばさんの家にいるにゃんこがまた、名脇役なんだにゃ、これが』
モーニング用のブレンドコーヒーのカップを片手にトモノリさんはにやにやが止まらない。
『家と会社が近くって、いいもんだね。出社前にこんなにも、ゆっくりコーヒーが飲めるんだから』
確かに、私もそれは日々、思っている。世間さまよりも朝が早いこの喫茶店業界、通勤時間が長かったら私には到底、無理だっただろう。
カラン、コロンとドアベルが鳴って、入って来た顔を見ても私は驚かなくなっていた。父だった。
『あら、いらっしゃいませ』
『よう』
そう言って、カウンター席に座る。喜寿を過ぎてようやくコーヒーの楽しさに目覚めた父は、10日に1度ぐらい立ち寄るようになっていた。そして、メニュー表にあるストレートコーヒーを上から順に、毎回ひとつずつ注文する。
『きょうは、ケニアだな』
『かしこまりました』
『あと、芋のサラダのサンドイッチと』
コーヒーを飲みながら小さなノートに感想をしたためる。特に気に入った豆は『母さんにも飲ませてやろう』と言って、買って行く。
父は水飴の入っていた瓶を私に寄こして
『ししとう味噌だ。夕べ、母さんが作っていたから、お前さんにも持って来たぞ』
と言った。
『ありがとう。ししとう、家の畑の?』
『そうだ。母さんは味噌用にわざと残しておいて、辛みを強めるんだよな』
『焼きおにぎりにしようっと。冷や奴もいいわね』
『俺はもう少しだけ、甘みをきかせた方が好みなんだが』
父は秘密を打ち明けるような調子で言った。長年、一緒に暮らしていても、微妙な味加減なんかはそれぞれなのよね。
『お母さん、お料理にあまりお砂糖使わないものね』
『ああ、婆さんは砂糖の効かせ方が上手かったな』
『そうね。お料理の角がとれる、っていうのかしら。おばあちゃんは本当にお料理が上手だったわね』
昔は近所の若いお嬢さんが何人も習いに来たこともあったのだ、と叔父から聞いたことがある。そんな時でも祖母は絶対にお月謝のようなものは受け取らなかったそうだ。祖母が教えたお嬢さんの1人は、高校の家庭科の先生になったのだとも、人づてに聞いた。
『ケニア、美味いな。これは母さんと、パークゴルフの仲間にも飲ませたいな』
『売り上げにご協力、感謝』
『クッキーの詰め合わせも貰おうか。このあいだの大会の反省会が、この後なんだ』
『じゃあ、クッキーは私から皆さんにサービスさせてもらうわ。いつもお世話になっちゃって』
ふと、父が咳をする。ボンボニエールからはちみつのど飴を2つ、父の手のひらに。朝晩、涼しくなってきたものね。パークゴルフのおかげで、会社勤めの頃よりも体力はあるように見える。運動、大事よね、やっぱり。明日から、いつもより5分早く起きて、マンションからここまで少しだけ、回り道してみようかしら? なかなか颯爽とした父の後ろ姿を見ながら、そんな事を考えてみた。