ことのはカフェ

カフェに纏わる由なしごとをそこはかとなく綴ります。

イネコさん 3

映画の悪役のような男の人がかがんで両手を差し伸べると、ティピカさんはひょいとその腕の中に入っていった。私にはそのとき、ティピカさんが『オトーチャン』と言ったように聞こえた。
ティピカさんは嬉しそうに、何度も何度も男の人の肩に頭をすり寄せている。
『ティピカ、おまえ元気そうだな。よしよし。会いたかったぞ』

ママは目を見開いて、棒立ちになっている。男の人はティピカさんを肩にのせると、にこりとして右手を招き猫のように挙げてママに向かって
『よぉ』
と言った。

そして、私にもやさしい声で
ごきげんよう
と言った。映画の悪役だなんて思ってしまって、ごめんなさい。

男の人はティピカさんを抱っこしたまま、さっきまでお蕎麦屋さんの奥さんが座っていた席に座ると
『ブルーマウンテン』
と言った。

ママは何かを思い出したようにクスッと笑うと、男の人がしたのと同じく招き猫のように右手を挙げて
『かしこまりました』
と言った。

ティピカさんは男の人の膝の上で、前足を『ふみふみ』している。大きな手のひらに頭から背中を撫でられながら、ティピカさんはすっかり目を細めている。男の人が嫌いなわけじゃなかったのね。

『来るなら、言ってくれるとよかったのに』
『この近くで同窓会があってね。ほら、温泉まんじゅうだ』
と、鞄から小さな箱をとりだした。そして、私にも
『よかったら、ご一緒にいかがですか?』
と声をかけてくれた。

『ネコちゃんもいただきましょう。ブルーマウンテン、私たちの分も淹れるから』
ママは静かにコーヒー豆を挽きはじめた。

ブルーマウンテンのカップを載せたソーサーには小さな温泉まんじゅうが添えられていた。
『ネコちゃん、こちらね、私の…』とママが言いかけたとき、男の人が
『はじめまして。ジュンコの父です』
と続けた。ママは一瞬、間を置いて
『お父さん、こちらはネコちゃん。この店がオープンしてから、ずっと来てくれているのよ』
と、私を紹介してくれた。お父さんは
『そうですか。娘がいつもお世話になって、ありがとうございます』
と、頭を下げた。

ティピカさんはお父さんがカウンターに置いたおまんじゅうの包装フィルムを、獲物のようにトントンと叩いている。すっかり成熟した年頃のティピカさんだけど、お父さんと一緒だと子猫に戻るみたいだ。

父もおばあちゃんといるときは、少年のように見えることがある。そういうものなのかもしれない。

イネコさん 2

私のおばあちゃんは、この店をとても気に入っている。ずっと住んでいた場所の喫茶店のコーヒーを思い出すそうだ。都会でのひとり暮らしの方が性にあっていたが、ひとり息子が年寄り扱いして自分の側に呼び寄せたのだ。

父はおばあちゃんと同居したかったようだが、おばあちゃんは『それだけは、勘弁してほしい』と言ったらしい。私もおばあちゃんも、毎日この店に来ているが、ここで顔を合わせることはほぼない。私は朝に、おばあちゃんはお昼過ぎに来る、という暗黙の了解がある。おばあちゃんには『ネコちゃんのおばあちゃん』ではなく、ただひとりの『ルリコさん』でいるための時間がとても、たいせつなように思うからだ。

梅の花をながめていたティピカさんは、いつの間にか椅子の上で丸くなって寝ている。時々、しっぽをパタパタさせている。

蕎麦屋さんの奥さんは、贔屓のプロ野球チームの新しい監督の活躍を楽しみにしていることを熱く語って、ママはそれを静かに聞いていた。


アベルが静かに音を立てて、そっと覗き込むようにしながら若い男の人が入ってきた。この辺の人じゃないみたい。ティピカさんは薄目を開けたが、またすぐに寝てしまった。気のせいかもしれないけど、ティピカさんは男の人にはそっけない。

男の人は入口から1番近い席に座って、トーストとダージリンティーを注文した。
『この近くで、映画の撮影に使われた公園があると聞いたのですが…』
蕎麦屋さんの奥さんが前掛けのポケットからメモ用紙とボールペンを出して、地図を書きながら説明している。

『ああ、そう。わざわざ会社を休んで来たの。あの映画の女優さんね、その公園の近くの和菓子屋さんのどら焼きが好物なのよ。よかったら、寄ってみてね』
『本当ですか? 僕もどら焼き好きだから、何だか嬉しいです』

奥さんと男の人はすっかり打ち解けて、映画の話をしている。奥さんは顔真似付きで映画の名科白を語る。男の人が楽しそうに笑う。ティピカさんはぐっすり眠っている。ママはにこにこして2人のやりとりを見ている。私はコーヒーをおかわりしよう。

男の人はダージリンティーを飲み終わると
『じゃあ、行ってみます。帰りにお蕎麦も食べに寄りますね』
と、足取り軽やかに出て行った。

『さあ、私もそろそろ戻らないと。じゃあ、ネコちゃんごゆっくりね』
奥さんが店を出ようとすると、熟睡していたはずのティピカさんがパッと目を覚まして駆け寄った。
『ティピちゃん、またね。おりこうさん』
ティピカさんは奥さんが出て行ったドアの前に暫くずっと座っていた。

静かになった店の中で、梅の花をながめる。スープの冷めない距離に住むおばあちゃんの家に遊びに行くと、いつもあちらこちらにバラの花が飾ってある。なので、おばあちゃんが梅の花を持ってこの店に来たということが意外に思えた。

ドアの前に座っていたティピカさんが、ママの方を振り返ってニャーニャーと鳴く。何かを訴えているようだ。
『なぁに、ティッティ? 開けてほしいの?』
ママがドアを開けると、外には映画の悪役のような顔をした男の人が立っていた。

イネコさん 1

重たい木のドアを押すと、ドアベルがやさしい音を立てる。
『いらっしゃい』
ママがアルトの声で迎えてくれる。きょうはまだ、誰も来ていない。ママの声を合図のように猫がカウンターから、するりと現れる。私はカウンターの奥から3番目の席に座る。カウンターの端には花瓶に梅の枝が挿してある。梅の匂いがかすかに漂ってくる。

私の隣の椅子に猫がひょいと、跳び乗る。
『ティピカさん、おはよう』
人さし指をそっと近付けると、猫が鼻を寄せてくれる。猫は挨拶が済むと、またカウンターの後ろに戻っていった。

『ママ、きょうのケーキって何?』
『プラムのケーキよ』
『あ、好きなやつ。じゃあ、それにする。それからコーヒーと』

カウンターしかないこの店では、ママの仕事の流れがよく見える。後ろの棚のキャニスターからコーヒー豆を測って、手動式のミルで挽く。

お湯をそっと注ぐと、コーヒーがふんわりと盛り上がる。いつも、おまんじゅうみたいだなぁ、と思いながら見ている。

プラムのケーキは、かっちりとした四角い積み木のようにカットされていたけれど、バターがほどよく効いたやさしい味わいだった。

ママと初めて会ったときは、エプロンよりもスーツの方が似合いそうだと思った。キャリアウーマンとか、先生とか、そういう感じがした。だけど、ママの淹れるコーヒーを飲んだり、猫と一緒にいるところを見ていると、見た目よりもずっと柔らかいひとなのだと思えてきた。

またドアベルが鳴り、お蕎麦屋さんの奥さんが入ってくる。ティピカさんがしっぽをピンと立てて近寄る。
『ティピちゃん、おはよぉー。きょうも可愛いねぇー。よしよし』
そう言って、ティピカさんの頭を撫でる。

『いらっしゃい。いつもので、いい?』
ママはまた豆を挽く。豆を挽く静かな音が心地よい。ティピカさんが足元からなかなか離れないので、奥さんは椅子に座れずにいる。見かねたママが声をかける。
『ティッティ、もう座っていただきましょうよ』

ティピカさんにはママの言葉がちゃんと通じている。ティピカさんはトコトコと歩いて、今度は梅の枝が挿してある側の椅子にひょいと跳び乗った。そして梅の花をじっと見つめ始めた。


奥さんは私の1つ隣の椅子に座った。コーヒーを差し出すと、ママがこう切り出した。
『おばさん、この間のお話だけど…』
『わかってるわよ、ジュンちゃん。私もね、ダメもとで話してはみるけどってはじめから言っておいたから』
『ごめんなさい』
『気にしない、気にしない。きょうの深煎りモカも美味しいわ。ねえ、ティピちゃん』
ティピカさんは『ニャー』と返事をした。

ママは少しホッとした表情で
『ネコちゃん、その梅ね、あなたのおばあちゃまがくださったの。きれいでしょ? ティピカもすっかり気に入って、毎日ながめているのよ』
と言った。

ネコちゃん、この近所のひとたちは皆、私のことをそう呼ぶ。このあたりはお蕎麦を栽培している農家さんが多い。それなのに、父は私をイネコと名付けた。子どもの頃、何だかお蕎麦に申し訳ないような気がして、自分の名前を隠そうとしていた。見かねた担任の先生がネコちゃんと呼んでくれた。それ以来、この呼び名が定着した。

栞さんのボンボニエール 5

雪のせいか、お客さんが少ない。にもかかわらず、トモノリさんの指定席には女性3人のグループが。やれやれ、という表情でカウンター席に座ったトモノリさんの目が訴えてくる。
『栞さーん、他のテーブルみんな空いてるのに何で僕の席だけ? ねえねえ』
ごはんの出し方に物申すときの猫みたいな顔をしている。

3人の女性たちがトモノリさんの事情を知る筈もなく、声高らかに話し続けている。ボンボニエールを開けて、いつもの深煎りモカのソーサーにアーモンドチョコを2つ添える。これを食べて気を取り直しておくれ。

猫の子の機嫌が少し、回復したようだ。トモノリさんはアーモンドチョコを口に入れると、こんな話をしてきた。
『前に雑誌の表紙になっていた猫、覚えてる? キジトラの』
『あー、あの山さんに似てる猫ちゃん?』
『そうそう。この間、駅前の本屋に行ったら写真集が売っていたよ。あの表紙になってから、人気が出てきたみたいだね』

あの猫ちゃんは確かに、何とも味のある顔をしていた。もしあの猫ちゃんが人の言葉を話せるとしたら、自分のことを『俺様』と言うのではないだろうか。よき時代のガキ大将を思わせる。

『トモノリさん、その写真集は買ったの?』
トモノリさんは、少し間を置いて、コーヒーをひとくち飲んだ。
『息子と一緒だったからね、そのときは』
その表情が、クリスマスにタケちゃんがトモノリさん用に編んだスコティッシュフォールドの編みぐるみにそっくりだったので、タケちゃんの観察眼はなかなかのものだと感心してしまう。

奥さんと息子さんが、大の犬好きなのでトモノリさんは自分が大の猫好きであることを家族に隠し続けている。隠す必要もないような気もするけれど、トモノリさん流の気遣いらしい。

ここはそんなトモノリさんが猫好きな自分を目いっぱい解放できる数少ない場所なのだ。キジトラくんの写真集は近々、店の本棚に用意しておこうか。ここでなら、誰にも気兼ねなく眺められるものね。


『最近ね、保護猫活動をしているお客さんのところのホームページのお手伝いを始めたのよ。きのう保護されたばかりの猫ちゃんの動画、見る?』
答えは最初からわかっているので、返事を待たずにタブレットを差し出す。

トモノリさんはニコニコを通り越して、ニヤニヤしながら動画に見入っている。そして時々、タブレットに向かって話しかける。

『大丈夫だよ。シャーしなくても』
『そうかい、おいしいのかい。よかったねぇ』
『お、すごいジャンプ力だね。チビちゃん、君かっこいいぞ』

今回は、カウンター席に座って正解だったのではないかしら。それにしても、会社で経理課長をしているような男の人までもこんなふうにしてしまうのは、猫ちゃんならではの凄いところだわ。

『この子たち、よい里親さんが見つかるといいな。しあわせになってほしい』
デレデレしていたトモノリさんが、真面目な顔に戻ってつぶやく。本当にそうだ。


そろそろ深煎りモカの2杯目を淹れよう。これにはミルクを添えることになっている。窓の外を見ると、雪がまだ降り続けている。この猫ちゃんたちは、こんな寒い冬の日に、小学校の門のところで保護されたという話だ。ランドセルを背負った子どもたちが体操着で包んでチサトさんのところに連れてきたそうだ。


トモノリさんの指定席にいた3人の女性たちが帰っていった。
『テーブル空いたけど、どうする?』
『きょうはここにいるよ』
2杯目のコーヒーにミルクを入れながら、トモノリさんは答えた。私もその方がいい。

『他のお客さん、いないから私もコーヒー飲んでいいかしら?』
『好きなものを飲んで。ご馳走するよ』
そういう積もりで言ったわけでは、ないのだけれど。
『それじゃ、カフェオレをいただきます』
『子猫たち見てたら、牛乳が飲みたくなった?』
『そうみたい』

ボンボニエールの蓋を開けて、私たちの間に置く。
『この金色の包みのも、おいしいわよ。ホワイトチョコなの』
『あ、本当だ。コーヒーにも合うね。ねえ、栞さん。この真ん中の猫もホワイトチョコみたいな色してる。お尻のところの斑がハートマークになっているね』
『どれどれ? わー、きれいなハート模様。もうすぐバレンタインデーだから、この子を目立つところに載せようか』
『いいね! もし、この子がそばにいたら最高のバレンタインデーになるなぁ』

トモノリさんといると、どうしてか学生の頃のような気分になる。カフェオレが普段よりも甘く感じるのも、気のせいではないだろう。

雪はまだ止みそうもない。サンドイッチ用のからしバターもいつもより、固い。帰りまでには止むといいな。本屋さんに俺様猫ちゃんの写真集を買いに寄りたい。そう言えば、あの猫ちゃんは確か『ユキ』という名前だったな。

アキノブさん 4

女の子がピアノを弾き終わると、タカコさんはまたマンガ本を読み始めた。金髪の彼が水を注ぎに来てくれたので、またコーヒーを追加した。彼はエプロンに挿してあるボールペンを取るのに、もそもそとしていた。やたらと背の高い彼は黙っていたら、人に威圧感を与えかねない。だけど、その不器用さが、愛嬌になっているタイプのような気がする。焦らなくてもいいからな、と励ましたくなる。

彼を見ていて、甥っ子たちのバスケットの試合を思い出す。勝ったジュリのチームに1人、やたらと不器用な子がいた。その子が相手方を戸惑わせて、ペースを乱していた。そこをねらって味方にパスをしていく、という策のようだ。ある特徴が使い方しだいで長所にも短所にもなるものだな、と思う。

ピアノの音が止むと、他の席の会話が聞くともなしに耳に入ってくる。
『これね、おみやげ。ダンナさんの親戚の人たちと泊まりがけで温泉に行ってきたの。その町の喫茶店で買ったの』
『あら、かわいい猫ちゃん。ティピカって読むの?』
『ティピカって、お店の名前なの。カウンターだけの小さなお店だったわ。そして、このイラストは看板猫のティピカちゃん。絵の得意な常連さんが描いたらしいわ』
『ありがとう。素敵なペンケースだわ』
『温泉のおみやげらしくないけど、あなたはお饅頭は食べないだろうな、と思って』

看板猫のいる店か…。ちょっと行ってみたい気がする。子どもの頃、兄とよく野良猫に給食の残りを持って行ったことを思い出す。社宅だったから、家には連れてくることができなかった。

静かな店の中に、金髪の彼の大きな声が響いた。
『かしこまりました。ありがとうございます! またのご来店をお待ちしてます!』
と、深々と頭を下げている。おじいさんが会計をして、店を出て行くところだった。大きな花束を持った後ろ姿、背筋がピンと伸びている。あの花束を受け取るのは、どんな人だろう。

タカコさんはマンガ本を読み終えたらしく、また煙草に火を点けた。マンガ本はタカコさんにとって、親友の栞さんとなかよくなるきっかけになったたいせつなものだそうだ。だから俺はタカコさんにはよく、マンガ本をプレゼントしていた。

だけど、おじいさんの花束を見ていたら、たまには花もいいかな、という気がした。タカコさんにはどんな花が似合うだろうか。

タカコさんはコーヒーの残りを飲み干して言った。
『私たちも、そろそろ帰ろうか。本屋さんに寄って行ってもいい?』
花よりなんとか、というけれど俺がタカコさんに花をプレゼントできるようになるには、俺があのおじいさんぐらいの年齢にならないといけないのかもしれない。

会計をしようとすると、金髪の彼が小声でおじいさんが払ってくれたと言った。不器用で大声の彼だけど、秘密の話もできるようだ。長身と金髪が、とても紳士的に見えた。

アキノブさん 3

金髪の彼が、たくさんのフルーツと生クリームが添えられたプリンをタカコさんの前にガタンと音を立てて、置いた。そしてコーヒーの茶碗と受け皿をカチャカチャいわせながら、俺の前に置いた。

彼がカウンターに戻ったのを確認してから、俺たちは運ばれてきたものを取り換えた。正解はコーヒーがタカコさんのもので、プリンは俺のものだ。

巷では甘いもの好きな男もだいぶん市民権を得てきたような気がするのだが、金髪の彼の中ではまだプリンは女性のためのものであるらしい。

タカコさんは煙草を片手に、俺がプリンを食べている様子をじっと見ている。そして、クスッと笑った。
『格闘技みたい』
プリンはぷるぷると揺れて、何度もスプーンからこぼれ落ちそうになる。それを追いかける。ようやく口に運ぶ。

最近はクリームのような食感のプリンも多いけれど、この弾力のあるプリンのほうが俺は好きだ。このプリンに使われているのは、毎日ピアノの曲を聞いて育った鶏が産んだ卵だそうだ。だから、こんなにまろやかな味がするのかもしれない。よい音楽は鶏も人も関係なく働きかけてくれるのだろう。

またピアノの音が聞こえてきた。確かショパンの曲だ。この曲は胃薬のコマーシャルにも使われていた記憶がある。ピアノの前に座っているのは小さな女の子だ。側にいるのは父親だろうか。タカコさんが小声で言う。
『上手ね。私も、あのくらいの頃にピアノを習いに通ったことがあったの。両親は私を小学校の先生にさせたくて、ピアノも覚えさせようとしたのね』
初めて聞く話だった。
『だけど、音楽の素質が全くなくて3ヶ月でやめてしまったの。高校の教員なら、ピアノが弾けなくても問題はないものね』

音楽の素質か。確かにタカコさんがキッチンでお皿を洗っているときの鼻歌は、音程が合っていたためしがない。毎日ピアノを聞いている鶏の卵を食べたら、歌がうまくなるだろうか。ふと、そんな考えが頭をよぎった。
『プリン、おいしいよ。ひとくち食べる?』
『いいわよ。あなた、全部お食べなさいよ』

まあ、いくら歌が下手でも俺にとって、たいせつな人であることには変わりはないのだから。だけど、授業中の凛とした様子からは全く想像がつかないギャップが多い人だといまだに思わされる。

また、おじいさんと目が合った。おじいさんも小さな女の子の演奏を楽しんでいる様子だ。まだ一言も交わしていないのに、とても心が通じ合っているような気になってしまうのはピアノの取り持つ力なのだろうか。

カウンターの中では金髪の彼が、ピアノに合わせて首を振りながらガチャガチャとグラスを洗っている。タカコさんの煙草を持っていない方の指は、テーブルの上で鍵盤を叩くような動きをしていた。

アキノブさん 2

タカコさんはピアノの方を振り返って
『素敵な曲ね。楽しいメロディーだわ』
と言う。どうやら、この曲を知らないらしい。

高校を卒業してタカコ先生の『彼氏』になり始めたばかりの頃に1度、カラオケに誘ってみたことがあるのだが『私、音痴だからカラオケ歌わないの』と、あっさり断られてしまった。なので、カラオケは兄一家と楽しむことにしている。兄は毎回この歌を歌う。義姉は、煙草は吸わないのだけれど。


歌詞の中の女の人は、幸せってやつがわかるまで煙草はやめないそうだが、タカコさんは日なたぼっこをしている猫のような表情で、煙草を吸う。その顔を見たいがために職員室に通ったものだった。

だけど、同じ高校にいた俺の幼なじみが、煙草で退学になった。そのとき以来、タカコ先生は学校で煙草を吸うのをやめた。

『ヨシユキくんのこと、ごめんなさい。学年主任の先生にもお願いしてみたけど…』
タカコ先生は俺に頭を下げた。ヨシユキの退学は先生のせいではない。

ヨシユキの煙草を見つけた学年主任が、タカコ先生の婚約者だったということをクラスの女の子から聞いたのは、ずいぶん後になってからだ。


そのかわり、家と喫茶店ではたくさん吸う。おいしそうに吸っている顔を見ていたら『体に悪いから、やめな』とは言えない。

おじいさんは1曲弾き終わると、さっと自分の席に戻った。俺たちのテーブルの側を通るとき、俺にウインクしていった。タカコさんは気付かなかったようだ。

金髪の彼が、おじいさんのテーブルに近づいていって話しかけている。
『ピアノ、もっと弾いてください』
おじいさんの返事はここからは聞き取れなかった。金髪の彼はまた、深々と頭を下げてカウンターに戻った。

『アキちゃんも弾いてきたら?』
タカコさんのその言葉に思わず、おじいさんの方を振り返る。おじいさんは目で俺をピアノの方に促した。

俺が必ずカラオケで歌う曲、いつもテレビから流れるあのアイドルグループの曲だ。百年先も愛を誓うよ、という歌詞が大好きなあの歌。

おじいさんのテーブルには、きっとたいせつな人に贈るであろう豪華な花束が、そっとのせられているのが見えた。おじいさんとそのたいせつな人のために、そしてタカコさんのために弾こう。

少し緊張したけれど、間違えずに弾けた。おじいさんは俺の想いを汲み取ってくれたかのような微笑みを見せてくれた。タカコさんは煙草の吸い殻で灰皿をつついていた。照れかくしや戸惑っている時によくしている仕草だ。そして、さらに照れかくしをするように、カップに残っていたコーヒーをひとくち飲んだ。