もうすぐバレンタインデーだ。この歳になると『チョコをもらえるかどうか』なんて心配とは無縁になっていて、何ともお気楽な境地だ。カラカラと引き戸が鳴って、パリッとしたスーツ姿のトオルがニヤニヤして手を振る。
『よお、サトル』
『あ? なんで、おまえ、ここにいるんだよ?』
『おいおい、お客様にそれはないだろ? キリマンジャロと、苺のガレット』
そう言って、カウンター席に座る。
『おまえ、いつ来たの』
『ああ、きのうの夜にこっちに着いてホテルに泊まったんだよ』
『また、出張か?』
『いや、今回は私用だ。サトルちゃんにもバレンタインのチョコを持って来たんだぜ』
と言って、いかにも高級そうな光沢のある小さな紙袋を差し出す。
『日本では、うちしか扱ってないんだ。契約にこぎつけるまで3年かかったよ』
ドイツのチョコレートで、バレンタインの時期限定のものらしい。毎度のことながら、トオルのひたむきさには頭が下がるよ。催事のたびにどこか必ず新しい取引先を見つけるんだからな。
『トオル殿、かたじけない』
『くるしゅうないぞ、サトル殿』
と、おちゃらけた後で真面目な顔をする。そのスーツの胸ポケットにモンブランの万年筆が挿さっている。
『あれ、モンブラン? 確かおまえって、カランダッシュが好きなんじゃなかったか?』
『ああ、これか? めざといね、サトルちゃんは。万年筆コレクターだもんな』
と笑ってポケットから出して見せてくれる。
『このチョコレートの会社の社長がくれたんだ。そこまで、うちのチョコレートを評価するおまえは私の親友だ、と言ってね』
『俺さ、メディアで話題になる、とかじゃなくって、本当にその仕事に夢中になっている人の作っているものだけをお客様に紹介したいんだよ』
中学のとき、クラスの奴らとバレンタインチョコの数を競っていたようなトオルがこんなことを言うようになるとは。ちょこっと格好よく見えたりして。俺の腹の中など関係なさそうに、トオルはガレットにかじりついている。
『このガレット、美味いな。サトルが作ったのか?』
『いや、これは近所の職人だ』
トオルは暫く食べかけのガレットを見つめていて
『女の子、こういうの好きかもしれないな。ホワイトデーにいいかも』
『ホワイトデーって、バレンタインもこれからだろ?』
『いやぁ、毎年会社の女の子たちがくれるんだよ。去年は32個だ。だから、今から準備しておかないと』
『自分のデパートでいくらでも用意できるだろうに』
『それじゃ、つまらんよ。女の子からさすが、バイヤー、素敵なお菓子屋さんご存知なんですね、って言われるのが楽しいんだぜ』
あー、やっぱり中学の頃のトオルは健在だったか。さっきのちょこっといい話は一体どうしたよ?
ガラガラと引き戸が鳴って、ヨシコが入ってくる。
『お疲れー。サトルちゃん、ホット』
『おう、いそがしそうだな』
『そうなのよ。だからコーヒーだけでいいわ』
『チョコ食えよ』
さっきトオルからもらったチョコをヨシコにも。
『うわ、何これ? すごくおいしい』
そりゃそうだろう。トオルの3年以上の思いがこもったチョコだからな。
そうだ、ヨシコのおにぎりをトオルにも食べさせたい。トオルになら、ヨシコの心意気が伝わるだろう、きっと。後でホテルに届けに行こうか。中味は何がいいだろう? そうだな、験を担いで『かつお』にしよう。さっきの話ぶりだときっと、今でも同僚とチョコの数を競い合っていることだろう。健闘を祈るぜ。