皆様、ごきげんよう。ティピカです。きょうは『はじめまして』のお客様がいらしています。洒落たスーツを着て、胸ポケットにはジュンコが時々、手紙を書くときに使う『万年筆』というものを挿しています。随分と前にお客様たちのお喋りの中に登場していた『ちょい悪おやじ』なる言葉がよく似合いそうなお方ですよ。
ちょい悪おやじ殿がジュンコに名刺を差し出しています。
『そうですか。百貨店のバイヤーさんでいらっしゃるんですね』
『新蕎麦の時期に催事を計画していまして、お蕎麦が特産のこちらに伺った次第なんです』
新蕎麦とはまた、ずいぶんと気の早い。まだ、雪も溶けきってもいないというのに。
『キリマンジャロと何か、甘くない軽食はありませんか? 最近、チョコレートを食べ過ぎていて、甘い物はどうも…』
『ベーグルなんか、いかがですか?』
『あ、いいですね。じゃあ、それを』
人間の世界には『バレンタイン』というチョコレートを贈る習慣がありますね。ちょい悪おやじ殿は女性たちから、たくさんもらったご様子。商売熱心な喫茶店のママさんなら『まあ、おモテになるのね』ぐらいのお愛想は言うのでしょうけれども。
『ニャー』すみませんねぇ。うちのジュンコは愛想がないのですよ。ちょい悪おやじ殿は私を見てにこりとしました。その『にこり』がなかなかチャーミングで、おじさん猫の私でさえもちょっと『キュン』となりますよ。ドアの外から薄氷を踏む音が聞こえて来ます。あの音はユキ君のお嬢ちゃんですね。
『ニャーン』
ジュンコがドアを開けてくれました。
ちょい悪おやじ殿が『猫くん、お散歩かい?』と私の方を見ます。『どうぞ、ごゆっくり。この町のお蕎麦はみんな美味しいですよ』私たちは目と目で男同士の会話をしました。
『やあ、どうしたの?』
『ティピカのおじちゃま、聞いてよ。パパったら、ひどいのよ!』
お嬢ちゃんの言うには、ユキ君が彼氏さんにビンタをお見舞いしたとの事。おやおや、穏やかではありませんね。さらに話を聞いてみると、合点がいきましたよ。お蕎麦屋さんの奥さんのお隣のあの猫。彼は『ちょい悪』ではなくて、本当に人間たちの間では『悪名の高い』トラブルメーカーでした。お蕎麦の畑を荒らす、子どもにかじりつく、など彼が起こした問題は数えきれません。
ユキ君は人間と暮らした経験があるので、人間の気持ちもよく解るのですよね。だから、人間の物差しで『不良』と言われているような猫と娘が関わることに不安を覚えたのかもしれませんね。ユキ君の話も聞いてみないことには何とも言えませんが。
『パパは理由もなく、そんなことをしないと思うよ。僕が聞いてみよう。寒いから、ミケコおばさんのところで待っているといいよ』
『ティピカのおっさん、すまないね。親子喧嘩に巻き込んじまって』
『あの猫は、パパのお眼鏡にかなわないのかい?』
ユキ君はバツが悪そうに毛づくろいを始めました。そして、こう言いました。
『おっさんよ、ジュンコ姉さんからバレンタインに何かもらったか?』
『ああ、バレンタインの夕飯はいつもより、豪華だったよ。ふかふかの座布団ももらったし』
『だろ?』
ユキ君は目を潤ませながら続けました。
『あいつ、パパが世界で1番大好きって言っていつも俺にくっついてたのに、この間のバレンタインには俺と散歩する約束をすっぽかして、あの若造におやつを持って行ったんだよ。口惜しいじゃねえか』
こんな時、人間は『目が点になる』と言いますね。やれやれ、心配して損しましたねぇ。私の顔を見てユキ君が拗ねた調子で言います。
『何だよ、おっさん。これを自分とジュンコ姉さんに置き換えて考えてみてくれよ』
『ああ、ごめんごめん。だけど、殴るのはまずいだろう』
『そうだよな』
お嬢ちゃんがにこにこして、こちらに歩いて来ました。ミケコちゃんがうまいこと、宥めてくれたようですね。
『パパー、おじちゃまー。ミケコおばさんがおやつくれたの。一緒に食べようよ』
あんなに怒っていたお嬢ちゃんに、ミケコちゃんは何を言ってあげたのでしょう?
全くミケコちゃんの器の大きさといったら。
『ティピカ、きょうのお散歩はずいぶんゆっくりだったのね』
ジュンコの脚にスリスリします。
『なぁに? よっぽど寒かったのね。人の脚を湯たんぽみたいに』
そうじゃないんですけどね。まあ、いいでしょう。親子喧嘩の調停の後のおやつでお腹がいっぱいになりましたよ。私はちょっとだけ寝ることにしましょう。