皆様、ごきげんよう。ティピカです。お天気がよいので、店の前の松の木の上で通りを歩く人を眺めていました。こんなに小さな町なのに、見たことのない人もいるものなのですね。ご近所の皆様のお顔はほとんど知っているつもりでしたが、私もまだまだですね。
犬を散歩させている人もいます。犬が私に気づいてキャンキャン吠えます。坊ちゃん、おじさんは喧嘩は好きじゃないのですよ。君はお散歩を楽しむとよいではありませんか。なに、気取って言うのではありませんよ。犬は私が木から下りるのを期待しているようです。何だか、この町に来た頃のユキ君を思い出しますね。今では、すっかり落ち着いてよいパパですよ。
犬の飼い主さんが
『こらこら、吠えないのよ。明日、またお洋服を買ってあげるから、おりこうにしていなきゃ、だめよ』
と、宥めています。犬はもう1度、私をにらみつけて、飼い主さんと歩いて行きました。お洋服ですか。もし、ジュンコが私に着せようとしていたら、私は家出していたかもしれませんね。
おや、あちらから見慣れた顔が。ルリコさんが自転車をこいできました。私を見つけると手を振ってくれます。私も尻尾で、ご挨拶をします。自転車が店の前に到着したので、私も木から下りました。
『ティピカ、これ、何だと思う?』
ルリコさんは自転車のかごから小さな箱を出して、私に見せました。さあ、何でしょう? 私たち猫が好きそうな匂いはしてきませんね。でも、この楽しそうな様子からすると、ジュンコも好きなものではありそうですよ。
ルリコさんと一緒に店の中へ。
『今ね、温泉に寄ってきたのよ』
と、私に見せた箱をジュンコに渡します。
『あら、おまんじゅう?』
『一緒に食べようと思ってね』
『じゃあ、お茶の方がいいかしら?』
『私ね、コーヒーとあんこの組み合わせ、好きなのよ』
『あら、嬉しい。私も本当のところ、そうなのよ』
『まあ、奇遇ですこと』
2人は女子高生が秘密を打ち明け合うときのような笑い方をしています。学生時代はもう、何十年も前の筈ですよね。ジュンコが声をひそめて
『とっておきのブルーマウンテンがございますのよ』
と言うと、ルリコさんは今度は時代劇の悪徳商人のような笑い顔をして見せました。
普段はアルトの声で静かに会話する2人ですが『温泉まんじゅう』という少しだけ旅行気分のあるお菓子が登場することで少しだけ、はしゃいだ気持ちになるものなのでしょうか? 温泉まんじゅうを食べたことのない私には、よくわかりません。ですが、この『温泉まんじゅうとブルーマウンテン』という組み合わせはジュンコと私がともにオトーチャンと慕う『山さん』のお気に入りなので、私は暫く会えていないオトーチャンを思い、しんみりとしてしまいました。
温泉まんじゅうを食べてしまうと、2人はいつもの口調になって話を続けています。
『私、この町に来てからまだ1度も温泉に入ってなかったのよね。お蕎麦と温泉で有名な町だというのに』
ルリコさんは『とっておきのブルーマウンテン』を飲みながら続けます。
『自転車で町中を走って、風景を写真に収めて、それでこの町がわかったつもりになっていたけど、そうじゃないわよね。自転車で温泉にふらりと行けるなんて、なかなか贅沢なことよね』
ジュンコは黙ってルリコさんの言葉に耳を傾けています。私はジュンコが誰かの話を聞いている時の表情が、好きです。
私たちがこの町に来る前、ジュンコは会社で経理の仕事をしていました。その頃はあまりお喋りが得意ではないことが、マイナスポイントだと思われていたようです。後輩たちからは『こわい先輩』という扱いでした。同じ特徴でも、場所が変わると価値が変わるというのはよくあることで、ジュンコの静かさは喫茶店のカウンターに立つと、希少なコーヒー豆のように独特の味わいに変わる気がします。と、ちょっと褒めすぎましたか? 照れくさいので、私はちょっとだけ寝ることにしましょう。