ことのはカフェ

カフェに纏わる由なしごとをそこはかとなく綴ります。

ティピカちゃんねる 3

皆様、ごきげんよう。ティピカです。今頃の時期になると、人間たちは『夏休み』といってほんの数週間のあいだ仕事や学校から離れるようです。

どうも、人間たちは私たち猫のようにゆったりとくつろぐことが上手ではないように思えてなりません。せめて『夏休み』ぐらいはゆるやかに過ごしてもらいたい、そう願います。

相棒のジュンコと私が住むこの町は、蕎麦の産地としてよく知られています。そして、もうひとつ温泉の町としても有名です。なので、人間たちが休みになると、この町の空気も変わるのです。


アベルがカラコロ、と音を立てて若い女性の2人連れが入ってきました。はじめまして、のお顔ですね。ジュンコの『いらっしゃいませ』も、普段より少しだけ澄ましているような気がしなくもありません。

片方の女性と目が合いました。女性は表情を変えずに『あ、猫』とつぶやきました。どうやら、猫好きというのでもなさそうですね。そっとしておいてあげるのも、おもてなしのひとつでしょう。カウンターの後ろへ。

2人は入口のすぐ側の席に並んで座りました。私と目を合わせた女性が、メニューを眺めています。連れの女性がジュンコに話しかけます。
『私たち、3日前からこの近くの民泊にお世話になっているんですよ。おいしいケーキが食べたい、と言ったらこちらを教えてくれたんです』

民泊、私の仲良しのお蕎麦屋さんの奥さんの親戚のお家ですね。あそこのお嬢さんはピアノがとてもお上手ですよ。是非、お聴きになってくださいね。

ジュンコに話しかけた女性はガトーショコラとカフェオレを、私を『猫』と言った女性はマドレーヌとアイスコーヒーをそれぞれに注文しました。常連さんのルリコさんが来る時間まで、私はおめかししておきましょうか。カウンターの中のジュンコに尻尾を踏まれない場所に移動しましょう。女性たちの会話が聞くとは無しに耳に入ってきます。

『あなたも、せっかくこんなにお蕎麦やお野菜が美味しい町に来ても、ケーキは欠かせないのね』
『いくらおいしくても、ケーキの魅力に勝てるものは、そうそうないわよ。お姉ちゃんって、ほんとに和食、好きよね。煮物とか、ごま和えとか、そういうお料理』
『だって、美容と健康には、やっぱり和食でしょ? 明日は美肌効果のあるお湯に行きましょうよ。目指せ、美人姉妹よ!』

『そういえば、先生とのデートはどうだったの? あの薄暗い民家カフェに行ったんでしょ?』
『薄暗いって、あなたにはあの陰翳礼讃のような世界観がわからないのかしらね?』
『男の人って、ああいうお店好きかなぁ? お菓子もあんことか、和菓子ばっかりだったし』
『あら、先生はあのお店を気に入ってくださったわよ。ただね…』
『ただ?』
『せっかくのあの漆喰の壁にね、どぎつい色合いの迷い猫の貼り紙がべたべた貼ってあったのよ』

迷い猫、思わず聞き耳を立てます。
『テレビや雑誌にもよく出てる猫らしいの。なんだか、睨みつけるような顔の猫だったわ。先生、猫好きみたいでその猫のこともよく知っていたわ』
『お姉ちゃん、昔から犬の方が好きだものね。猫好きの先生と、話合うの?』
『犬猫以外の話だって、あるじゃない』
『まあねぇ』


おや、外に誰かいますね。
ジュンコ、ドアを開けてよ。外に出たいよ。
『はいはい、お散歩に行きたいのね』
ジュンコはカウンターから出て、ドアを開けてくれました。カラン、コロン。聞き慣れているドアベルが耳に心地よく響きます。


『ティピカのおっさん、おつかれさん』
『やあ、ユキ君か。散歩かい?』
『いや、これからミケコ姉さんのところに行くから一緒にどうかと思って』
『ああ、ありがとう。せっかくだけど、もうすぐ常連さんが来るから、またにするよ』
『働き者だねぇ、おっさんは。人間みたいだな。まぁ、俺もあまりひとのこと言えないか。じゃあ、次は来てくれよ』
『ああ、わかったよ。ミケコちゃんによろしく』

ユキ君の後ろ姿を見送りながら、あの無愛想だった猫がすっかりこの町に馴染んできたものだと、つい、先輩ぶった気持ちになります。まさか、さっき店で女性たちが話していた迷い猫というのは。それに、ユキ君がぽつりと言った『俺もあまりひとのこと言えないか』という言葉。おっと、これ以上の詮索は不要ですね。


小さくなっていくユキ君の後ろ姿の反対側から、今度は人間の家族連れがこちらに近づいて来ます。小さな女の子がユキ君を見て
『あ、猫ちゃん。こんにちは』
と、声をかけています。微笑ましいですね。

家族連れが、だんだんと私の方に近づいて来ました。
『ママー、また猫がいるよ』
男の子が私を見て言います。
『あら、本当ね。猫の多い町なのかしら』
男の子が私の側にしゃがんで手を差し出して、こう言います。
『おい、猫、お手!』
あのー、私、犬じゃありませんけど。
『猫、お前、お手できないのか? こうやるんだぞ』
と、私の手を掴んで自分の手のひらにのせます。
『わかったか? もう1回いくぞ。お手』
いや、私は『お手』はしませんよ。
『お前、物覚え悪いなぁ』

いえいえ、私、こう見えて記憶力には自信があるのですよ。1度でも店に来てくださったお客さまのお顔は絶対に忘れませんよ。さっきユキ君に挨拶していた女の子も真似をして言います。
『おまえ、ものおぼえ、わるいなぁ』
そして、私の尻尾をぐいっとひっぱります。痛い、痛い。こんな小さな手にずいぶんと、大きな力があるものですね。ジュンコにうっかり踏まれたときよりも痛いですよ。
『ほら、行くぞ』
『待って、パパ。じゃあねぇ、猫ちゃん。ごきげんよう

ああ、びっくりしました。『夏休み』には色々な人が登場しますね。さあ、毛づくろい、毛づくろい。少し落ち着いてきましたよ、やれやれ。

『ティピカ、日なたぼっこ?』
振り向くと、ルリコさんの姿が。数時間ぶりに『猫』ではなく、名前で呼んでもらいましたよ。店までルリコさんと並んで歩きます。ルリコさん、お待ちしてましたよ。きょうのケーキはガトーショコラですよ。

また、ドアベルがカラン、コロンと鳴ります。
『いらっしゃいませ。あら、ティピカも一緒だったの』
ジュンコがいつもの声で言います。先ほどの『美人姉妹』はルリコさん用に置いてあるフランス語版のファッション雑誌を仲よく眺めていました。
『このモデルさんのウエスト、私たちの半分ぐらいかしらね?』
『私たち、って言わないでよ。私のウエストはあなたよりもモデルさん寄りだわ』

ルリコさんは、いつもの席に座って小さなバッグから文庫本を取り出しました。ジュンコは静かにコーヒー豆を挽き始めました。きょうは店のここだけが、いつもどおりの眺めです。ほっとしたので、私はちょっとだけ寝ることにしましょう。