ランチタイムには少し遅くて、アフタヌーンティーには少し早い時間帯は店の中にはお客さんがあまりいらっしゃらない。敢えて、その時間帯を狙う人もいる。奥のテーブル席には辞書を片手に、語学の勉強をしているきれいな白髪の女性が。
最近は『勉強お断り』という貼り紙をしているお店もあるけれど、私はいくつになっても、何かを学び続けられる人って素敵だと思う。だから、カウンターからそういうお客さんの姿が見えたら嬉しくなっちゃう。
カラン、コロンとドアベルが鳴る。
『いらっしゃいませ』
と、お客さんかと思ったらミユキさんが立っていた。きょうは休みの筈なんだけど。
『どうしたの?』
『きょうは、お客さんで来たかったの。ちょうど暇そうで、よかったわ』
経営者側の言葉とは、思えないわね。ミユキさんはカウンターの上のメニューを手に取って、じっくりと見始めた。
『スモークサーモンのキッシュとトラジャをください』
『かしこまりました』
いつものミユキさんじゃないわ。どうしたのかしら。オーダーした後もずっと、メニューを眺めている。
『改めて見ると、この猫のイラストって可愛いわよね。コースターと同じ人が描いているのよね、確か。この猫の形の塩と胡椒の容器はイタリアで買い付けたものだし』
そう言って、塩と胡椒の瓶を掌に載せている。
『お待たせしました。スモークサーモンのキッシュとトラジャです』
ミユキさんは黙々と食べている。いつもはもっと、楽しそうに食べる。食べている間も何も話そうとはしない。飾ってある猫の編みぐるみをじっと眺める。そして、溜息をつく。トラジャをゆっくりと飲み始める。そして、ふと思い出したようにバッグから紙袋を出す。
『栞ちゃん、黒豆、食べる? ママがね、京都からたくさん買ってきたのよ』
ようやく、話してくれたわ。少し、ホッとする。
『ありがとう。甘く煮ても美味しいけど、コロッケにするのも好きなのよ』
『よかった。足りなくなったら、いつでも言って。まだまだたくさんあるから』
ミユキさんは肩の荷を下ろしたような表情をして、またトラジャを飲んだ。そして、こんな話を始めた。
『ママが京都にいる間ね、猫たちにごはんをあげるのにママのマンションに行ってたの。そうしたらね、老人ホームの電話番号のリストが何枚も置いてあったの。ところどころ、赤い鉛筆で印が付けてあるのよ』
『まさか、マリコさんが?』
『まだ本人には確かめてないのよ。だけど、また何かを企んでいることだけは確かよ。京都のつぎは九州に出かけて行ったの。もし、ママが老人ホームに行くことにでもなったら、あの大量の猫グッズは私のところに送ってくるのかしら、そう考えたら気が滅入るわ』
それで、いつもと様子が違ったのね。ボンボニエールの中には、ミユキさんのお気に入りの赤ワインのチョコがあった筈。トラジャのおかわりに添えると、小さな声で
『心の友よ!』
と言った。やっと、普段のミユキさんらしくなってきたわね。
勉強をしているお客さんにも、と思ってテーブル席の方へ。テーブルの上の辞書はフランス語のものだった。
『よろしかったら、チョコどうぞ』
『ありがとうございます。素敵なボンボニエールですね』
ボンボニエールを褒められると、ちょっと嬉しい。大事なおばあちゃんからのお土産。
『私にも、トラジャをください』
お嬢さんの旦那さんがフランスの方なので、フランス語の勉強を始めたそうだ。旦那さんは日本文学の研究をしているらしく、日本語は『私より上手』だと笑っていらした。
『マリコさん、九州には何をしに行ったの?』
『美味しいさつまいもを探しに行ったのよ。全く、お豆の次はお芋よ。きっと、また大量に買ってくるわ。そろそろ、猫のごはんの用意をしないと』
ミユキさんは伸びをして、立ち上がった。
ドアベルがカラン、コロンと鳴る。そろそろ午後のお客さんたちがいらっしゃる頃だわ。マリコさんの『企み』はミユキさんが想像しているものとは違う気がしている。きっと、楽しいことに決まっている。私はそう思う。