ことのはカフェ

カフェに纏わる由なしごとをそこはかとなく綴ります。

サトルさん 1

サンダルにエプロンという気楽な恰好のままで、ヨシコが入ってきた。いくら隣同士とはいえ、エプロンぐらい外してきてもよさそうなものだ。

『サトルちゃん、ホット』
『なんだ、おにぎり屋。暇そうだな』
『おにぎりじゃないわ。おむすびよ』
『どっちだって、同じだろうよ』
『同じじゃないわ。おむすび、という言葉の響きの美しさがわからないの?』
そう言って、ヨシコは『よっこいしょ』とカウンター席に座った。

『うちは暇じゃないわよ。姉さんが手伝いにきてくれたから、ひと休みしにきたのよ』
おにぎりとおむすびの違いにこだわるのなら、コーヒーにだって、豆の名前が色々とあるわけだ。だから、ただ『ホット』じゃなくて、と俺は思うのだが、言うと何倍になって返ってくるかわかったものじゃないから、黙っていよう。

ヨシコとは幼なじみで、小学校はずっと一緒に通っていた。だけど、私立の女子校のかわいい制服が着たいという、それだけの理由で中学からは学校が離れた。『おむすび』という言葉はその頃の同級生のお母さんが使っていたそうだ。遊びに行くといつも、着物に割烹着をつけたお母さんが
『ヨシコさんも、おむすび召し上がれ』
とすすめてくれたのだという。
『小津監督の映画に出てきそうなお母さんだったのよー。きれいで、やさしくて』

この話は何万回も聞かされた。

『クッキーあるけど、食べるか?』
『あ、嬉しい。甘いもの、欲しかったんだ』
ヨシコはクッキーをぼりぼりと食べながら、小津監督の映画から抜け出てきたようなお母さんの話を繰り返した。その思い出が、ヨシコが『おむすび屋』を始める原点だった。

俺の喫茶店はその隣にあって、『おむすび』を出前してもらったり、コーヒーを届けたりと、持ちつ持たれつ、やっている。ヨシコのおむすびはうちのお客さんたちにも、評判がよかった。

『そうだ、サトルちゃん。あとで、コーヒー届けてよ。ボットにいれて。幼稚園のママさんたちの話し合いがあるのよ』
『3時ぐらいで、いいか?』
『うん、よろしくね』

ヨシコはコーヒーを飲み終えると、手を出した。俺はボールペンの挟まったノートを渡してやる。コーヒー代は月末にまとめて支払われることになっていた。ヨシコはそこに、きょうの日付とコーヒー1と書き込み、そのとなりに『ブリジット』とサインをした。それは、ヨシコが演劇部にいたときの芸名だった。小津監督の世界に憧れていたヨシコは一時、女優になりたいと言っていたことがあった。

『今、姉さん来るから』
そう言って、ヨシコは出て行った。

サワコさん、ヨシコのお姉さん。俺はこの人も、小津監督の映画の世界の住人だと思うのだが、ヨシコの目にはどう映っているのだろうか。