タカコさんはピアノの方を振り返って
『素敵な曲ね。楽しいメロディーだわ』
と言う。どうやら、この曲を知らないらしい。
高校を卒業してタカコ先生の『彼氏』になり始めたばかりの頃に1度、カラオケに誘ってみたことがあるのだが『私、音痴だからカラオケ歌わないの』と、あっさり断られてしまった。なので、カラオケは兄一家と楽しむことにしている。兄は毎回この歌を歌う。義姉は、煙草は吸わないのだけれど。
歌詞の中の女の人は、幸せってやつがわかるまで煙草はやめないそうだが、タカコさんは日なたぼっこをしている猫のような表情で、煙草を吸う。その顔を見たいがために職員室に通ったものだった。
だけど、同じ高校にいた俺の幼なじみが、煙草で退学になった。そのとき以来、タカコ先生は学校で煙草を吸うのをやめた。
『ヨシユキくんのこと、ごめんなさい。学年主任の先生にもお願いしてみたけど…』
タカコ先生は俺に頭を下げた。ヨシユキの退学は先生のせいではない。
ヨシユキの煙草を見つけた学年主任が、タカコ先生の婚約者だったということをクラスの女の子から聞いたのは、ずいぶん後になってからだ。
そのかわり、家と喫茶店ではたくさん吸う。おいしそうに吸っている顔を見ていたら『体に悪いから、やめな』とは言えない。
おじいさんは1曲弾き終わると、さっと自分の席に戻った。俺たちのテーブルの側を通るとき、俺にウインクしていった。タカコさんは気付かなかったようだ。
金髪の彼が、おじいさんのテーブルに近づいていって話しかけている。
『ピアノ、もっと弾いてください』
おじいさんの返事はここからは聞き取れなかった。金髪の彼はまた、深々と頭を下げてカウンターに戻った。
『アキちゃんも弾いてきたら?』
タカコさんのその言葉に思わず、おじいさんの方を振り返る。おじいさんは目で俺をピアノの方に促した。
俺が必ずカラオケで歌う曲、いつもテレビから流れるあのアイドルグループの曲だ。百年先も愛を誓うよ、という歌詞が大好きなあの歌。
おじいさんのテーブルには、きっとたいせつな人に贈るであろう豪華な花束が、そっとのせられているのが見えた。おじいさんとそのたいせつな人のために、そしてタカコさんのために弾こう。
少し緊張したけれど、間違えずに弾けた。おじいさんは俺の想いを汲み取ってくれたかのような微笑みを見せてくれた。タカコさんは煙草の吸い殻で灰皿をつついていた。照れかくしや戸惑っている時によくしている仕草だ。そして、さらに照れかくしをするように、カップに残っていたコーヒーをひとくち飲んだ。