ことのはカフェ

カフェに纏わる由なしごとをそこはかとなく綴ります。

栞さんのボンボニエール 7

きょうのランチセットはどうしても、ひよこ豆のカレーにしたいと思った。どうしてなのか、誰かが食べたがっている気がしてならなかった。だけど、このメニューは男性のお客さんにはあまり人気がないみたい。

めずらしくランチタイムに現れたトモノリさんにも勧めてみたけど、振られてしまった。奥さんがカレーをたくさん作り置きして旅行に出かけたらしく、このところ、ずっとカレーを食べ続けているという。

植木屋さんのお兄さんには
『え、お豆のカレー? 何だかハトみたいだね。じゃあ、今日はたらこスパゲティとアイスコーヒーにしておくよ。栞ちゃん、また炊き込みご飯やってよ。筍とかさ』
と言われてしまった。

いつもはランチセットを注文してくれる3人の女性グループも、フルーツサンドと玉子サンドとトーストだった。前の日にテレビで『名店の食パン特集』を見たそうだ。

『頑張れ、ひよこ豆!』そんな私の気持ちはお客さんたちには届かず、きょうのランチセットの売り上げは今年のワースト1になりそうだ。舞い降りてきた『ひよこ豆のカレーが食べたいよぉ!』という言葉は誰のものだったのかしら。

たくさん残ってしまったカレーが気になったまま、ラストオーダーの時間になった。八百屋さんのお父さんも、競馬の予想が外れたときはこんな気持ちなのかもしれないな。

店の電話が鳴る。ミユキさんからだった。
栞ちゃん、これから行っていい? ちょっと相談があって』
ミユキさんと話したら、気が晴れそうだ。だけど、相談って?


閉店時間を15分ぐらい過ぎて、お揃いの猫ちゃんTシャツを着たカップルさんをお見送りしていると、入れ替わりにミユキさんが入ってきた。
『栞ちゃーん、聞いてよ。また、ママがね…』

何だか、荒れ模様だ。カウンターに座ったミユキさんにボンボニエールを差し出す。お気に入りの赤ワインのチョコがあって、よかった。
『まあ、これでも食べながら、ゆっくり話してよ。今、コーヒー淹れるね』
ミユキさんはチョコをもりもり食べながら、言った。
栞ちゃん、お腹空いた。お昼ごはん食べてないの』
『え、どうしたの? ランチの残りのひよこ豆のカレーなら、すぐできるけど』

ひよこ豆のカレー』でミユキさんの目が輝いた。ミユキさんは私の手を両手で握って
『心の友よ!』
と言った。ずっとひよこ豆のカレーが食べたかったらしい。ミユキさんの心の声が私に届いていたというわけか。


カレーの2皿目を用意している私に、ミユキさんが目玉クリップでまとめた1センチ程の紙の束を差し出した。
『このせいで、お昼ごはんを食べる時間もなかったのよ』

その1枚目には『万年筆を持って、カフェに行こうよプロジェクト』と走り書きがしてある。なるほど、マリコさんからのFAXか。ミユキさんはマリコさんのFAXを『恐怖のマリコ文書』と呼んでいる。

『ママが今いる店でね、若い女の子が万年筆で手紙を書いていたそうなの。その姿に心を打たれたらしくて。それで、カフェで万年筆で手紙を書く文化を復活させたいわ、なんて言い出したのよ』

この店のオーナーのマリコさんは他にも喫茶店をあちこちにもっていて、今は自宅マンションのすぐ側のお店にいることがほとんどだ。
『そこにタイミングよく、インク専門店の人が現れたのよ。ママの吸引力、恐るべしだわ』


ミユキさんの話によると、その方は元々マリコさんのお店によく来ていたらしい。最近、勤めていた文具メーカーから独立して、オーダーメイドで万年筆用のインクを販売し始めたそうだ。

『それでね、うちの喫茶店でもオリジナルのインクを販売しよう、ということになったらしいの。ママは店の規模によっては、万年筆やレターセットも扱うようにしたいって。ミユキが各店の店長に掛け合っていらっしゃいと、まあ、そんなわけで何店舗かの店長に会ってきたのよ』
ミユキさんは一息にこう話すと、ひよこ豆のカレーの2皿目に取りかかった。余程お腹が空いていたみたい。

『まったく、またママの暴走が始まったわ。マリコのマの字は、巻き込むのマ、だわ』
と言いながら、ミユキさんはあっという間にカレーを食べ終えた。

『お疲れさま。うちの店だったら、猫ちゃんの色柄のインクなんかだと、どうかしらね? 例えばロシアンブルーとか』
栞ちゃんって、ホント、ママの良き理解者よね。他の店長だと、そうはいかないわ。あからさまに迷惑そうな人もいて。今のところ、好意的な人は半分ちょっとだわ』

ミユキさんはマリコさんというよりは、困惑気味の店長さんたちのことでへこんじゃってたみたい。私は元々、マリコさんのセンスが好きでこの店に通っていたから、マリコさんの発想を楽しめるけれど。

『私はこの企画、楽しみだわ。猫ちゃん柄のレターセットなんかも一緒に置いてもいいかも。この近所にね、文房具屋さんもあるのよ。協力してもらえると思うの』
『栞ちゃーん、ホントにあなたって、心の友だわ』

『心の友よ!』この言葉はマリコさんもよく使う。ミユキさんはそのことには、気づいているだろうか。
『おいしいカレーのお礼に、コーヒーは私が淹れるわ』
ミユキさんはそう言うと、猫ちゃんの形の小銭入れから100円玉を2枚、いつものジャムの空き瓶に入れた。

コーヒーのよい匂いが漂ってくる。やっぱり、人に淹れてもらうのはいいな。私も赤ワインのチョコを、と思ったらミユキさんが全部食べてしまっていた。まあ、いいや。ナッツのチョコがまだ残っている。

好きなものに対して、まっすぐなマリコさん。それに振り回されながらも、どこか楽しんでいるようなミユキさん。親子でありながら、心の友でもあるのかもね。乗り気じゃない店長さんたちの冷ややかな態度に負けないでね。私はこのプロジェクト、応援するからね。

そうだ、うちのオリジナルのインクが出来上がったら、タカコに手紙を書こう。高校で国語の先生をしているタカコになら、この楽しさが伝わるだろう。タカコと学校帰りに寄っていた喫茶店のマスターは元気かな?

マスターにも、手紙を書いてみようか。私が今、喫茶店の店長をしていると知ったら驚くだろうな。そんなことを考えながら、ミユキさんの淹れてくれた美味しいコーヒーを味わっていた。