ことのはカフェ

カフェに纏わる由なしごとをそこはかとなく綴ります。

カホコさん 1

方向音痴の妹のおかげで、偶然みつけた住宅街の中の喫茶店。漆喰の壁に、障子、ぎらぎらしていない落ち着いた内装がとても気に入っている。お天気のよい日には、照明は点けずに障子越しのおひさまだけ。女友達とお喋りをするときには、絶対に選ばないお店だ。例えば、自分と静かに向かい合いたいとき、そんなときに来たくなるところ。そこに、思い切ってタケオ先生を誘ってみた。

タケオ先生が、この町に来るのは半年に1度だけ。先生のオフィスはここからはかなりの距離があるので、来るときには必ず泊まりがけだ。先生のニット作品に憧れて、講習会に参加するようになった。講習会はいつも満員で、先生のファンはたくさんいる。だけど、私の誘いにも気さくに応じてくれた。

『閑静で、素敵なお店ですね。こんなお店を知っているカホコさんも素敵ですよ』
なんて、言われてみたーい! そう思って講習会の後に声をかけたのが、きのう。そして、駅前で待ち合わせをして色々なお家のお庭に咲いているお花を眺めながら一緒に歩いている。今すれ違ったスーパーのレジ袋を提げたお母さんは、私達のことを近所に住む夫婦だと思っているかもしれない。そんな考えが浮かんで、頬がゆるむ。


『先生、こちらです』
店の扉を開けて中へ。いつも静けさと、コーヒーの匂いがそっと迎えてくれる。え、嘘でしょ? 落ち着いた白い漆喰の壁一面には、こちらを睨みつけるような顔をした猫のポスターが、べたべたと貼られている。何これ? せっかくの美しい壁になんてことを。

よく見ると『猫をさがしています』の文字が。
迷子の猫か。私の妄想も迷子になっちゃったかも。タケオ先生は特に気にする風もなく、にこやかにしている。私達は一番奥の席に座った。
気を取り直して、葉っぱが漉き込まれた和紙のメニュー表を先生の方に向ける。

『わー、達筆ですね』
先生はメニューの内容ではなく、メニューを書いている筆文字の方に興味があるみたい。私もペン習字でも始めようかな。
『白樺ブレンド、欅ブレンド、杠葉ブレンドブレンドコーヒーには皆、木の名前がつけられているんですね。面白いな。僕は黒松ブレンドにします』
『先生、何かお茶請けはいかがですか? このお店はあんこを使ったお菓子が美味しいですよ』
先生のきれいな指がメニュー表の文字を辿る。
桜あんぱん、よもぎあんぱん、あずき鹿の子、この店ではあんぱんが漆塗りのお皿に載せられて出てくる。そのお皿もとても、素敵だ。

『そうですか。じゃあ、小倉羊羹を。カホコさんは何にしますか?』
『私は桜あんぱんと欅ブレンドにします』
羊羹か、ちょっと意外。小学校のときの教頭先生を思い出す。家が近所だったので、ときどき遊びに行っていた。奥さんがいつもほうじ茶と羊羹を出してくれた。

タケオ先生は、道中にあった楽しいできごとなど、静かな口調で話してくれている。だけど、私は緊張しているのと、睨みつけるような顔の猫の貼り紙が気になっているのとで、今ひとつ先生の話に集中しきれずにいた。そのとき、先生がぴったりと話をやめて私をジッと見た。もしかして、気を悪くした?

そう思って先生を見つめると、先生が意外な言葉を切り出した。
『この猫、ユキ君だよね。時々、テレビにも出ていますよね。この間は、写真集も出した筈ですよ』
後ろを振り向くと、そこにも睨みつけるような猫の顔が。なんだ、私を見つめていたわけじゃないのね。がっかりしたような、ほっとしたような。先生は席を立って、貼り紙を見に行った。

ティピカちゃんねる 2

皆様、ごきげんよう。ティピカです。毎朝、店にコーヒーを飲みに来てくれる仲良しのお蕎麦屋さんの奥さんが帰ったので、私は松の木に登って町を眺めています。

この松は相棒のジュンコが植えたもので、ここからの景色はなかなかによいものです。今頃はクローバーが豊かに生い茂っています。人間は四つ葉のクローバーが好きだと聞いていましたので、1度、ジュンコのために探してみましたが、なかなか見つけられずに、つい眠ってしまいました。また、いつか探してみましょう。

おや、猫が歩いてきました。この辺では見かけない顔ですね。私よりはずいぶんと若い雄のようです。肩で風を切る、そんな言葉が似合いますね。若者らしくて、微笑ましいです。

あ、イネコさんの姿が見えてきました。ちょっと下に降りましょうか。

『あら、ティピカさん。待っててくれたの?』
イネコさんと一緒に店の中へ。
『ネコちゃん、寝坊? めずらしいわね』
ジュンコがイネコさんに話しかけます。
『夜中にね、ララさんと長電話しちゃったの』
ララさん、ルリコさんのことですね。仲良しなら、この店にも一緒に来るとよいのに、2人の間には『イネコさんは朝、ルリコさんは午後から』という暗黙の了解があるようです。

『散歩してたら、猫同士が喧嘩していたらしいの。それをポラロイドカメラでずっと、写していたんですって』
『まあ、よく撮らせてくれたわね』
『なかなかドラマチックな展開だったみたいなの。結局、仲直りしたみたい。岩合さんの弟子にしてもらえるかしら? なんて言ってたわ』
ジュンコはクスクス笑いながら
『ルリコさんらしいわね』
と言っています。

イネコさんがシナモンロールを注文したので、私はちょっと外の空気を吸いにいきましょう。どうも、このシナモンというのが私は得意ではないのです。

おひさまが背中をぽかぽかと照らしてくださいます。ああ、気持ちがいい。うとうとしていると、誰かが近づいてくる気配がします。猫ですね。薄目をあけてみると、この辺のボス猫のトラゾウ君とさっきの若い雄が連れだって歩いてきます。
『ティピカの父さん、おはようさん』
『やあ、トラゾウ君。おはよう』
『ほら、ユキ、ティピカの父さんに挨拶をしろ』
『どうも。ユキです』
『ユキ君、よろしく。私はティピカです。そこの喫茶店に住んでいます』
『父さん、すみませんね。どうも訳ありみたいで、猫の社会に慣れてない奴なんです』
トラゾウ君が頭を下げる。

ルリコさんが写真を撮った『喧嘩していた猫』とは、このふたりではないか、という気がしました。トラゾウ君は短気だけれど、面倒見はいい性質なので、まかせておけばユキ君もこの町に馴染んでいけることでしょう。
『じゃあ、父さん、また後で。これからミケコ姉さんのところにも行ってきます』

ふたりを見送って、また松の木に登ります。蕎麦畑では、白い花が見事に咲いています。畑のまわりに人だかりができていますね。何事でしょうか。耳を澄ませると、ざわざわとこんな声が。

『あ、こっち見たぞ。かわいいなあ。俺、きょう4時に起きたよ』
『新曲のダンス、カッコいいよね』
『きのう、駅前のそば屋さんにいたらしいよ』
『サインもらえるかなぁ?』
『あしたは温泉でも、撮影があるんだって』


テレビの撮影でアイドルの女の子が来ているようですね。ジュンコはこの町に引っ越してくるときにはテレビを持ってきませんでしたので、私は最近のアイドルの名前がさっぱりわからなくなりました。

イネコさんが出てきましたね。シナモンがここまで匂ってきます。なので、きょうは木の上からお見送りしましょうか。『イネコさーん、またあしたお待ちしてまーす!』
イネコさんが気づいて、手を振ってくれます。
『ティピカさん、特等席にいるのね。また、あしたね』

イネコさんの後ろ姿が小さくなると、シナモンの匂いもだんだんと薄らいできました。やれやれ。松の木からするりと降りて、気分転換にちょっとダンスでも。最近のアイドル事情には、すっかり疎くなってしまいましたが、ずっと前のマユちゃんのダンスなら私だっておぼえていますよ。

右手、左足、しっぽ…と、アイドルの女の子にしっぽはありませんね。ララララー、なかなかいい調子ですよ。左手、右足、ここでジャンプ! 決まりましたね。満足、満足。

『ティピカ、おはよう』
ハッとして振り返ると、そこにはルリコさんが。もしかして、私のダンスを見ていましたか? どうしましょう、恥ずかしいです。いいオジサンがアイドルのダンスをノリノリで。そうです、こういうときには毛づくろい、毛づくろい。

『あら、照れなくてもいいのよ。ダンス、決まってたわよ。カメラも持ってたら、よかったわね』
そう言って、ルリコさんは私にウインクしました。冗談じゃありません、ダンスの写真など、撮られては、かないませんよ。ルリコさんは『ふふふ』と笑って、店に入って行きました。私もルリコさんの後について店に。

『ルリコさん、ずいぶん早いのね』
『キティーはきょうは来ていないの?』
『ネコちゃんなら、さっき帰ったところよ』
『きのうね、なかなかよい写真が撮れたから、キティーにも見せようと思って持ってきたのよ』

ルリコさんはイネコさんを『キティー』と呼んで、イネコさんはルリコさんを『ララさん』と呼んでいます。子どもの頃『グランマ』と上手に言えなかったイネコさんのために考えた呼び方だそうです。『おばあちゃん』と『イネコ』だと、2人の空気感は出せないみたいですね。

『もしかして、猫の喧嘩の?』
『そうなの。キティーから聞いた? ほら、これなの。ジュンコさんも見て』
ジュンコの肩越しに覗くと、案の定トラゾウ君とユキ君の姿が。ユキ君、なかなか威勢がいいです。だけど、トラゾウ君もさすがの風格。喧嘩の後でふたりが肩を並べて座っている写真は、私が見ても少し感動してしまいます。

ルリコさんは満足そうに、エスプレッソを味わっているようです。
『岩合さんに弟子入りするんでしょ?』
ジュンコがそんな冗談を言っています。ルリコさんは真面目な顔で答えました。
『私も、せっかくのシャッターチャンスを逃すようではまだまだだわ。ねえ、ティピカ』

ルリコさん、あのことはジュンコには秘密に願いますよ。決まりが悪いので、私はちょっとだけ寝ることにしましょう。

サトルさん 4

モンブランの上にのった栗を一口で食べて、ミユキさんは言った。
『私たちが子どもの頃って、モンブランと言えば黄色い栗のペーストに黄色い栗がのっていましたよね』

年齢不詳だと思っていたが、黄色いモンブランを知っている年代なんだな。
『そうそう、土台もカップケーキみたいでね。今みたいな茶色のモンブランを初めて食べたのは、確か高校生の時でしたよ』
『私は中学生でした。母が宝物を見せるように、ケーキ屋さんの箱を開けたのをよく憶えています』
『ずいぶんお洒落になっちゃってね。だけど、俺はやっぱりあの黄色いモンブランも好きですね。毎年、新栗の時期には黄色いのと両方出していますよ』
『じゃあ、また出張に来ないと』
『ぜひぜひ、今度はマリコさんもご一緒に』
『はい、連れてきますね。最近は家の近所の店に出ていることが多くて。海外にも出かけていませんし』
『意外ですね、あのマリコさんが。あ、そうだ。ずっと前にマリコさんからもらった外国のお土産があるんですよ』

カウンターの抽斗の奥から、ガラスの文鎮を出して、ミユキさんに手渡す。
『ペーパーウェイト、ですかね。これを母が?』 
『この葉っぱの彫刻、よく見たら栗の葉っぱみたいだと思いませんか?』
ミユキさんは文鎮を透かすようにして、眺める。
『そうかもしれませんね。この、ちょっと細長いような』
『南フランスのお土産だそうですよ』
『あー! それなら、きっとそうですね。あの辺では栗の葉っぱで包んだチーズがありますものね』


『これ、手紙用品のディスプレイに使ったらいいと思いませんか?』
ミユキさんの『栗をテーマにした展開』という言葉が俺の中でも、楽しそうに踊り始めているようだ。栗農家のおじさんとおばさんの顔や、この店にケーキを届けてくれているパティシエのタツオの顔が浮かんだ。この人たちもきっと、この企画に惜しみなく協力してくれるだろう。


『母の気まぐれにお付き合いいただけて、嬉しいです。この時代に手紙だの、万年筆だのって勘弁してくれ、と言った店長さんもいらっしゃるので。まあ、お気持ちもわからなくはないですけれどね』
ミユキさんは少し淋しそうに笑った。

『俺は、昔からあるものもいいと思いますよ。うちの息子なんかも俺が若い頃に買ったレコードをよく、聴いています。音に深みがある、なんて言いながら』
『頼もしいですね』
『本当に、わかっているかどうかはともかく。だけど、親父としては嬉しいものですね』

たいせつなものを共有できる相手がいることは、いいものだ。マリコさんもミユキさんというよき理解者がいてくれて頼もしいことだろう。この企画、お客さんたちにも響くといいな。
ミユキさんはポットのケニアカップに注いだ。

例えば、そうだな。栗の渋皮色のインク、栗が描かれたカードやレターセット…それを使って、ここでコーヒーを飲みながら、お客さんたちがたいせつな人に手紙を書く。カウンターから、そんな様子が見えたら、きっと楽しいだろう。

『ミユキさん、栗の渋皮色のインクって使い勝手よさそうじゃないですか?』
『あら、私も渋皮色は絶対に扱いたいって思っていたところです。意見が合いましたね。3色ぐらい作れたらいいかな、と思っています』

また、引き戸がからからと音を立てて、開く。カルチャースクールの生徒さんたちが入ってきた。
『店長さん、こんにちは。ちぇすとなっとーすと4つとホットも4つくださーい』

ミユキさんが不思議そうな顔で
『ちぇすとなっとーすとって、なんですか?』
と、聞いてきた。
『バターのトーストに栗きんとんをのせたものなんですよ』
『美味しそう。私も、次に来たらそれをいただくわ』

次に来たら、か。サンダル履きでぶらぶらと来られる距離ではない。だけど、また引き戸が開いて、立っていたのがミユキさんだったとしても、もう驚かないだろう。『遠いところを、お疲れさま』と、極上の1杯でもてなしたい。

サトルさん 3

ミユキさんのところは、ヨシコのようにサンダルでふらり、と来られるという距離ではない。飛行機を使っても、おかしくはないぐらいだ。ここはいわゆる観光名所というわけではないし、何かのイベントが行われている時期でもない。それに、遠いところまでわざわざ会いに来てもらう程に親しい間柄ではない。ぐるぐる考えたあげく、自分ながら間の抜けた質問をしてしまう。

『ミユキさん、旅行か何かですか?』
『出張、と言ったらカッコいいキャリアウーマンに見えるかしら?』
いや、どう見てもキャリアウーマンという言葉は浮かんでこない。ニットのワンピースは高価なものではありそうだが、機能的とはいえないだろう。それにマカロンのような丸いバッグ。職業、年齢ともに不詳、という印象だろうか。

ミユキさんはカウンターのいちばん端の店中が見渡せる場所に座って、メニューを眺め始めた。
モンブランと…ケニアもあるのね。じゃあ、ケニアをポットでください』
そう言うと、マカロンのようなバッグから万年筆と学生が使うよりも小さなノートを取り出して、何か書き始めた。万年筆はモンブランのものだった。駄洒落が好きなのだろうか。

『きのうまでね、神奈川にいたんです。市場の近くのお店だからなのか、あまりゆっくりするお客さまは多くないみたいですね。こちらはどうですか?』
神奈川! 全国ツアーみたいだな。確か、他県にも20店舗ぐらいは持っていたはずだ。まさか、ひとつひとつ回っているのか?

『神奈川から、いらしたんですか? お疲れさまです。うちはゆっくり過ごしてくださる女性のお客さまが6割ぐらいですよ』
『なるほど。だから、ポットのコーヒーが豊富なんですね』
『近くに幼稚園があって、そのお母さんたちがよく来てくれるんですよ。あと、カルチャースクールの生徒さんたちも多いです』

ミユキさんはまた、ノートに何か書き込んだ。
そして、モンブランを口に運びながら何か考えているようだった。
『栗を使ったメニューが多いですね。このモンブランも美味しいです』
『この辺では、けっこう質のよい栗が育つんですよ。だから、自然とメニューにも使ってしまいますね』
『母も連れてきたらよかったです。栗が好物だから』
マリコさん、お元気ですか? ずいぶんご無沙汰しているけど』
『元気すぎるぐらいです。きょうお邪魔したのも、その母の元気が原因なんです』

マリコさんが、ふと新しい企画を思い着いたらしい。自分の店のいくつかで、万年筆やインク、手紙用品も扱いたいのだそうだ。若い女性が喫茶店でコーヒーを飲みながら、万年筆で手紙を書く姿に心を動かされたのだという。

それで、娘のミユキさんが各店舗を回って店の規模や客層に合わせた提案をして歩いているということだった。
『サトルさんのところなら、栗をテーマにした展開にしてみたいです』
『俺も、この辺で栗を扱っている皆を応援したい気持ちもあるから、そういう話なら是非のりたいです』

それにしても、メールでも済ませられそうな案件にわざわざ出向いてくるのだから、発想がビジネスではない。やっぱりマリコさんは高等遊民だと思って、間違いではないだろう。


雑誌を捲りながら、キリマンジャロを飲んでいたサワコさんが
『小銭がないから、これで払わせてね。お釣りはヨシコのコーヒー代の足しにして』
と一万円札を置いて帰っていった。


サワコさんの後ろ姿を見送ったミユキさんが
『きれいな方ですね。女優さんみたい。お知り合いですか?』
と、興味をあらわした。
『隣のおむすび屋のお姉さんなんですよ。ときどき店を手伝いに来るようです』

ミユキさんはまた、ノートに何か書き込んだ。

サトルさん 2

ヨシコが帰った後やや経って、サワコさんが入ってきた。長い髪をゆるやかに後ろで束ねて、袖を捲った白い麻のブラウスを着ている。
『サトルちゃん、こんにちは。おむすび、よかったら後で食べて』
砥部焼の皿には『おむすび』が3つ、きれいに並んでいた。サワコさんはさっきまでヨシコが座っていた椅子に座った。

『サワコさん、ご馳走さまです。俺、このおぼろ昆布のやつ、すごい好きなんです』
『そう、よかったわ。お皿はいつでもいいから、ヨシコに渡してね』

子どもの頃に親父から聞いた話だと、砥部焼は『喧嘩器』とも呼ばれているらしい。夫婦喧嘩で投げつけても壊れない程に頑丈だから、という理由だそうだ。幸い、両親は仲がよかったので、家では器が飛び交うことはなかったけれども。

ヨシコが『おむすび屋を始めるから、お店で使う食器を一緒に選んで欲しい』と言ったときに真っ先に、砥部焼のことを思い出した。これなら、大雑把なヨシコが少々ぶつけたぐらいでは壊れないだろうと思ったからだ。


『きょうは、キリマンジャロをいただこうかしら。私ね、サトルちゃんのところの煎り加減がいちばん好きだわ』
お世辞かもしれないけど、そう言われるとやっぱり嬉しいものだ。棚から淡い紫色のライラックが描かれたカップを選ぶ。

キリマンジャロです』
『ありがとう。あら、素敵なカップね。ライラック、かしら?』
『札幌の作家さんの作品なんですよ。札幌は今頃はこの花が咲き誇っているだろうな』
『私、札幌ってまだ1度も行ったことがないの。ライラックは有名よね。見てみたいわ』
『俺も、ないです』
『え、じゃあどうしてこの作家さんと?』
マリコさんのお友達みたいです』
マリコさんって、たしかこのお店の?』
『はい、オーナーです』
『前に、高等遊民みたいって言っていた方かしら?』

サワコさんは俺がずっと前に、マリコさんのことを冗談めかして『高等遊民みたいな人だ』と話したことまで憶えてくれていた。そして、キリマンジャロをひとくち飲むと
『やっぱり美味しい。ほっとするわ。これが目当てで、ヨシコの手伝いに来ているのかもね』
と、笑った。
『ほっとするのは、ホットコーヒーだからですよ』
と、照れ隠しにつまらない駄洒落を言う。そんなことまで、にこやかに聞いてくれている。俺もほっとするよ。

引き戸がからからと音を立てて、開く。そこに現れた人を見て、我が目を疑う。まさか、高等遊民の娘? 

『サトルさん、お久しぶりです』
『え、ミユキさん?』
ミユキさんは軽く会釈をして、にっこりと微笑んだ。

サトルさん 1

サンダルにエプロンという気楽な恰好のままで、ヨシコが入ってきた。いくら隣同士とはいえ、エプロンぐらい外してきてもよさそうなものだ。

『サトルちゃん、ホット』
『なんだ、おにぎり屋。暇そうだな』
『おにぎりじゃないわ。おむすびよ』
『どっちだって、同じだろうよ』
『同じじゃないわ。おむすび、という言葉の響きの美しさがわからないの?』
そう言って、ヨシコは『よっこいしょ』とカウンター席に座った。

『うちは暇じゃないわよ。姉さんが手伝いにきてくれたから、ひと休みしにきたのよ』
おにぎりとおむすびの違いにこだわるのなら、コーヒーにだって、豆の名前が色々とあるわけだ。だから、ただ『ホット』じゃなくて、と俺は思うのだが、言うと何倍になって返ってくるかわかったものじゃないから、黙っていよう。

ヨシコとは幼なじみで、小学校はずっと一緒に通っていた。だけど、私立の女子校のかわいい制服が着たいという、それだけの理由で中学からは学校が離れた。『おむすび』という言葉はその頃の同級生のお母さんが使っていたそうだ。遊びに行くといつも、着物に割烹着をつけたお母さんが
『ヨシコさんも、おむすび召し上がれ』
とすすめてくれたのだという。
『小津監督の映画に出てきそうなお母さんだったのよー。きれいで、やさしくて』

この話は何万回も聞かされた。

『クッキーあるけど、食べるか?』
『あ、嬉しい。甘いもの、欲しかったんだ』
ヨシコはクッキーをぼりぼりと食べながら、小津監督の映画から抜け出てきたようなお母さんの話を繰り返した。その思い出が、ヨシコが『おむすび屋』を始める原点だった。

俺の喫茶店はその隣にあって、『おむすび』を出前してもらったり、コーヒーを届けたりと、持ちつ持たれつ、やっている。ヨシコのおむすびはうちのお客さんたちにも、評判がよかった。

『そうだ、サトルちゃん。あとで、コーヒー届けてよ。ボットにいれて。幼稚園のママさんたちの話し合いがあるのよ』
『3時ぐらいで、いいか?』
『うん、よろしくね』

ヨシコはコーヒーを飲み終えると、手を出した。俺はボールペンの挟まったノートを渡してやる。コーヒー代は月末にまとめて支払われることになっていた。ヨシコはそこに、きょうの日付とコーヒー1と書き込み、そのとなりに『ブリジット』とサインをした。それは、ヨシコが演劇部にいたときの芸名だった。小津監督の世界に憧れていたヨシコは一時、女優になりたいと言っていたことがあった。

『今、姉さん来るから』
そう言って、ヨシコは出て行った。

サワコさん、ヨシコのお姉さん。俺はこの人も、小津監督の映画の世界の住人だと思うのだが、ヨシコの目にはどう映っているのだろうか。

栞さんのボンボニエール 7

きょうのランチセットはどうしても、ひよこ豆のカレーにしたいと思った。どうしてなのか、誰かが食べたがっている気がしてならなかった。だけど、このメニューは男性のお客さんにはあまり人気がないみたい。

めずらしくランチタイムに現れたトモノリさんにも勧めてみたけど、振られてしまった。奥さんがカレーをたくさん作り置きして旅行に出かけたらしく、このところ、ずっとカレーを食べ続けているという。

植木屋さんのお兄さんには
『え、お豆のカレー? 何だかハトみたいだね。じゃあ、今日はたらこスパゲティとアイスコーヒーにしておくよ。栞ちゃん、また炊き込みご飯やってよ。筍とかさ』
と言われてしまった。

いつもはランチセットを注文してくれる3人の女性グループも、フルーツサンドと玉子サンドとトーストだった。前の日にテレビで『名店の食パン特集』を見たそうだ。

『頑張れ、ひよこ豆!』そんな私の気持ちはお客さんたちには届かず、きょうのランチセットの売り上げは今年のワースト1になりそうだ。舞い降りてきた『ひよこ豆のカレーが食べたいよぉ!』という言葉は誰のものだったのかしら。

たくさん残ってしまったカレーが気になったまま、ラストオーダーの時間になった。八百屋さんのお父さんも、競馬の予想が外れたときはこんな気持ちなのかもしれないな。

店の電話が鳴る。ミユキさんからだった。
栞ちゃん、これから行っていい? ちょっと相談があって』
ミユキさんと話したら、気が晴れそうだ。だけど、相談って?


閉店時間を15分ぐらい過ぎて、お揃いの猫ちゃんTシャツを着たカップルさんをお見送りしていると、入れ替わりにミユキさんが入ってきた。
『栞ちゃーん、聞いてよ。また、ママがね…』

何だか、荒れ模様だ。カウンターに座ったミユキさんにボンボニエールを差し出す。お気に入りの赤ワインのチョコがあって、よかった。
『まあ、これでも食べながら、ゆっくり話してよ。今、コーヒー淹れるね』
ミユキさんはチョコをもりもり食べながら、言った。
栞ちゃん、お腹空いた。お昼ごはん食べてないの』
『え、どうしたの? ランチの残りのひよこ豆のカレーなら、すぐできるけど』

ひよこ豆のカレー』でミユキさんの目が輝いた。ミユキさんは私の手を両手で握って
『心の友よ!』
と言った。ずっとひよこ豆のカレーが食べたかったらしい。ミユキさんの心の声が私に届いていたというわけか。


カレーの2皿目を用意している私に、ミユキさんが目玉クリップでまとめた1センチ程の紙の束を差し出した。
『このせいで、お昼ごはんを食べる時間もなかったのよ』

その1枚目には『万年筆を持って、カフェに行こうよプロジェクト』と走り書きがしてある。なるほど、マリコさんからのFAXか。ミユキさんはマリコさんのFAXを『恐怖のマリコ文書』と呼んでいる。

『ママが今いる店でね、若い女の子が万年筆で手紙を書いていたそうなの。その姿に心を打たれたらしくて。それで、カフェで万年筆で手紙を書く文化を復活させたいわ、なんて言い出したのよ』

この店のオーナーのマリコさんは他にも喫茶店をあちこちにもっていて、今は自宅マンションのすぐ側のお店にいることがほとんどだ。
『そこにタイミングよく、インク専門店の人が現れたのよ。ママの吸引力、恐るべしだわ』


ミユキさんの話によると、その方は元々マリコさんのお店によく来ていたらしい。最近、勤めていた文具メーカーから独立して、オーダーメイドで万年筆用のインクを販売し始めたそうだ。

『それでね、うちの喫茶店でもオリジナルのインクを販売しよう、ということになったらしいの。ママは店の規模によっては、万年筆やレターセットも扱うようにしたいって。ミユキが各店の店長に掛け合っていらっしゃいと、まあ、そんなわけで何店舗かの店長に会ってきたのよ』
ミユキさんは一息にこう話すと、ひよこ豆のカレーの2皿目に取りかかった。余程お腹が空いていたみたい。

『まったく、またママの暴走が始まったわ。マリコのマの字は、巻き込むのマ、だわ』
と言いながら、ミユキさんはあっという間にカレーを食べ終えた。

『お疲れさま。うちの店だったら、猫ちゃんの色柄のインクなんかだと、どうかしらね? 例えばロシアンブルーとか』
栞ちゃんって、ホント、ママの良き理解者よね。他の店長だと、そうはいかないわ。あからさまに迷惑そうな人もいて。今のところ、好意的な人は半分ちょっとだわ』

ミユキさんはマリコさんというよりは、困惑気味の店長さんたちのことでへこんじゃってたみたい。私は元々、マリコさんのセンスが好きでこの店に通っていたから、マリコさんの発想を楽しめるけれど。

『私はこの企画、楽しみだわ。猫ちゃん柄のレターセットなんかも一緒に置いてもいいかも。この近所にね、文房具屋さんもあるのよ。協力してもらえると思うの』
『栞ちゃーん、ホントにあなたって、心の友だわ』

『心の友よ!』この言葉はマリコさんもよく使う。ミユキさんはそのことには、気づいているだろうか。
『おいしいカレーのお礼に、コーヒーは私が淹れるわ』
ミユキさんはそう言うと、猫ちゃんの形の小銭入れから100円玉を2枚、いつものジャムの空き瓶に入れた。

コーヒーのよい匂いが漂ってくる。やっぱり、人に淹れてもらうのはいいな。私も赤ワインのチョコを、と思ったらミユキさんが全部食べてしまっていた。まあ、いいや。ナッツのチョコがまだ残っている。

好きなものに対して、まっすぐなマリコさん。それに振り回されながらも、どこか楽しんでいるようなミユキさん。親子でありながら、心の友でもあるのかもね。乗り気じゃない店長さんたちの冷ややかな態度に負けないでね。私はこのプロジェクト、応援するからね。

そうだ、うちのオリジナルのインクが出来上がったら、タカコに手紙を書こう。高校で国語の先生をしているタカコになら、この楽しさが伝わるだろう。タカコと学校帰りに寄っていた喫茶店のマスターは元気かな?

マスターにも、手紙を書いてみようか。私が今、喫茶店の店長をしていると知ったら驚くだろうな。そんなことを考えながら、ミユキさんの淹れてくれた美味しいコーヒーを味わっていた。