ことのはカフェ

カフェに纏わる由なしごとをそこはかとなく綴ります。

ルリコちゃん 4

気がつくと、私はルリコさんが置き忘れていった本に読み耽っていた。後半のページの間から栞紐があらわれる。

初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても

その栞紐に絡まるようにして、この言葉が私の目の前にあらわれた。

以前、リビングで本を読んでいる私にパパが言ったことがある。
『あのね、ルリコちゃん。本に書いてあることを自分の生き方に活用できるようになると、その本の価値が何倍にもなると思わないかな?』


ルリコさんにとって、まさにこの本がそういうものなのではないだろうか。そう思わずにはいられない程、この詩集に綴られている女性たちはルリコさんに似ていた。スッと背筋が伸びた、それでいて、柔らかさも感じさせるような。

ルリコさんは新しい町に馴染むまで、ポラロイドカメラを片手に、近所をあちこち散歩してみたという。仕事をしていた頃は『その場ですぐに画像を手に入れるための便利な道具』だとしか思っていなかったそうだが、新しい土地に移ってからは自分がポラロイド写真が結構、好きだということに気がついたらしい。デジタルカメラは何度でも撮り直せるけれど、ポラロイドだとそうはいかない。その一期一会のような緊張感が心地よいのだそうだ。

最近では、学生服を着なくなってからはずっと乗っていなかった自転車を買って、町中の風景をあちこち撮影するようになったのだというから驚きだ。ルリコさんは仕事のときは、てきぱきしていたが、どちらかというとインドア派だと思っていた。家でもよく、本を読んでいた。私が遊びに行くと読みかけの本を閉じて、リーディンググラスを外して相手をしてくれた。

あるときは、プルーストを原書で読んでいた。テーブルの上には小さなマドレーヌと、金襴手のカップに入ったコーヒーがあった。
『この本の中では、マドレーヌのおともは紅茶なんだけどね。私はコーヒーの方が好きだから』
と言って笑ったのを、憶えている。

ルリコさんが送ってくれたポラロイドに写っているのは、お店の人気メニューの『マドレーヌ・セット』で必ずコーヒーがつくそうだ。初めて訪れたルリコさんが注文すると、ママさんが『プルーストには、叱られるかもしれませんけどね』と言い、その一言がきっかけで、すっかり意気投合したという。


手紙には『いつか町中を案内したいから、ルリコちゃんも自転車に慣れておいてね』と書いてある。もう何年乗っていないだろう。だけど、満開のお蕎麦のお花を眺めながら、自転車を漕ぐのはきっと気持ちがよいだろうな。そんな想像をしながら、自分の背筋がスッと伸びるのを感じていた。

ルリコちゃん 3

ルリコさんに話したいことが、たくさんあった。先週観た映画のこと、絹さやの玉子とじが思いのほか上手くできたこと、エレベーターで乗り合わせた同じマンションの猫に『シャー』と威嚇されたこと…こんな他愛もない話は、そばにいるからこそできる話だ。これは手紙に書く程のことでもない。

とりとめのないお喋りをできる人が近くにいるって、貴重なことなんだ。このお喋りを、文字であらわそうとすると、なかなか上手くまとまらない。手入れしてもらったばかりの万年筆の書き味のよさに、私の言葉がついてこない。

マリコさんが戻ってきた。マリコスペシャルの甘味にほっこりとした後には、ふと苦味が恋しくなる。
マリコさん、エスプレッソください』
『もしかして、待ってた? ごめんなさいね。つい、にゃんこ話で盛り上がってしまって』
マリコさんはかなりの愛猫家だ。ルリコさんの新しい行きつけの喫茶店のママさんも、マリコさんのにゃんこ仲間らしい。

『そうだ、ルリコちゃん。ずっと前にね、ルリコさんが置き忘れていった本があるの。住所がわかるなら、送ってあげたらいいかしら』
マリコさんはそう言って、1冊の本を差し出した。本にはバラの刺繍がしてあるブックカバーがかけられていた。それは茨木のり子さんの詩集だった。私は書きかけの手紙をどかせて、本を捲り始めた。

人間は誰でも心の底に
しいんと静かな湖を持つべきなのだ

はじめての町に入ってゆくとき
わたしはポケットに手を入れて
風来坊のように歩く

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

詩のなかの言葉たちが、次々と目に飛び込んでくる。何だかルリコさんらしい、そう思う。ルリコさんと一緒にいて心地がよいのは、きっと、ルリコさんの心のなかの『湖』のおかげなのかもしれない。この湖は、私の他愛もないお喋りもさらりと受け止めてくれていた。新しい町ですぐに居心地のよい場所を見つけられたのも、この湖のもつ力だろう。

ルリコさんがくれた手紙には『もう少し、あたたかくなったら、遊びにいらっしゃい。この喫茶店は、あなたもきっと気に入る筈だわ』と書いてある。そのときには、積もる話をたくさん、たくさんしよう。エスプレッソの苦味と詩のなかの言葉たちが、騒がしくなりそうだった私の手紙をそっと、窘めてくれたような気がした。

ルリコちゃん 2

マリコさんの淹れるカプチーノにはカップの表面ぎりぎりのところまで、ホイップしたクリームがのせられている。こぼさないようにそっと、シナモンスティックでかき混ぜる。ほのかな甘みにホッとする。私は秘かに『マリコスペシャル』と呼んでいた。

カップの中身が半分になったところで、バッグから便箋と万年筆を取り出す。ルリコさんにゆっくりと返事を書こう。

ルリコさんとは、アルバイトに行った百貨店で知り合った。自己紹介して同姓同名だと知り、それ以来、年齢の差を超えて親しくなった。まわりの人たちも最初はどう呼び分けるか戸惑っていたが、結局『新しい方をルリコちゃん、御姉様の方をルリコさんと呼ぶ』という方法に落ち着いた。


このあいだ、文房具屋さんの催しで万年筆の手入れをしてもらったので、書き味がなめらかだ。インクの出方もちょうどよい。この万年筆はパパのもので、ずいぶんと古いものだ。ずっと机の抽斗に仕舞ったままだったのを私が使うようになった。

インクはルリコさんと一緒に特別に作ったものだ。半年前、ルリコさんが息子さんに呼ばれてこの土地から離れるときに『私たちの友情の証に』と言って私たちの好みにあった瑠璃色のインクをオーダーして『ルリコ・ルリコ』と命名した。

ルリコさんは息子さんに呼ばれるまでは、ここでのひとり暮らしをとても楽しんでいた。特に、マリコさんのこの喫茶店を気に入っていて『私の書斎よ』と言っていた。

息子さんは『年寄りを独りにしておくのは心配だ』と言ったそうだけど、本当のところは息子さんの方が、ルリコさんにそばにいて欲しいと思っているようだった。ルリコさんははじめは渋っていたけれど、腹を括って『絶対に同居はしない』という条件つきで息子さんのそばに移り住むことに決めた。そして
『私が仕事ばかりであの子にあまり構ってあげられなかったから、罪ほろぼしだと思って、行ってくるわ』と、少し淋しそうに笑った。

息子さんのいる町は蕎麦の栽培と温泉が有名で、とても長閑なところだそうだ。私はそういう町で『ルリコさんのバラ色のヘアマニキュアが悪目立ちしないだろうか』とか『好きなアーティストはコンサートに訪れない町だけど』とか、ごちゃごちゃと余計な心配をしていた。だけど、ルリコさんはちゃんと新しい場所で新しい楽しみ方を見つけている。心配しているように見せかけて、そばにいて欲しかったのは、私も息子さんと同じだったみたい。

『あら、素敵な万年筆。それ、銀ね。インクもきれいな色だわ』
マリコさんが言う。一目で銀だと言い当てるのは、流石だと思う。
『これ、父のを黙って借りちゃってるの。インクはルリコさんと一緒にオーダーしたお揃いなの』
『まあ、お父さまのを? これ、あげるからたいせつに使ってあげないと』
そう言って、マリコさんは抽斗から銀を磨くクロスを出してくれた。
『瑠璃色のインクね。あなたたちらしくて、素敵だわ。前にうちの店に筆記具メーカーの営業さんがよく来ていたけど、その方もいつも指にいろんな色のインクをつけていたわ。最近、お見かけしないけど、お元気かしら』

テーブル席のお客さんが、マリコさんを呼んでいる。
『ちょっと、ごめんなさいね。ルリコちゃん、ルリコさんによろしくね』

マリコスペシャルの続きを飲みながら、ルリコさんに知らせたい話をあれこれと思い浮かべていた。ルリコさんも今ごろは、猫ちゃんのいるお店でコーヒーを飲んでいるのだろうか。

ルリコちゃん 1

ルリコさんが手紙をくれた。同封されていた可愛らしいポラロイド写真を、マリコさんにも見せたい。
マリコさん、こんにちは』
『あら、ルリコちゃん、いらっしゃい。元気だった?』
マリコさんは切子のグラスを拭く手を止めて、私に声をかけてくれた。マリコさんの側には他にもいくつかの切子のグラスが、順番待ちのように並んでいた。

久しぶりにマリコさんとお喋りがしたかったので、カウンター席に座ってカプチーノを頼む。
『きれいなグラス。江戸切子?』
『そうなの。体験会に行ってきたのよ』
『え? じゃあ、これマリコさんが?』
『そう、楽しかったわー』

薄い緑色にはふきのとう、薄い茶色には土筆がそれぞれに刻まれている。とても、初めての人の作品には思えない。マリコさんの家系には、職人さんが多いらしい。だから、自然とそういう感性が養われているのかもしれない。マリコさんは子猫をそっと、撫でるような手つきでまたグラスを拭き始めた。

『ルリコさんがね、手紙をくれたの。新しい生活にも、慣れてきましたって。マリコさんのコーヒーにとても似たコーヒーを飲ませてくれる喫茶店があるから、頼もしいって』
『そう、よかったじゃない。ルリコさん、喫茶店がないと、青菜に塩だから』
『お店で写したポラロイドも送ってくれたの。ほら』
美しいブルーの封筒から、2枚のポラロイドを出して見せる。
1枚は猫が前足で、花瓶に挿した梅の枝に触れている写真。もう1枚は白いカップに入ったコーヒーと貝の形のマドレーヌの写真。ルリコさんは新しく移り住んだ町で目にしたものを、ポラロイドカメラで撮影しながら自分の生活と結びつけていったようだ。写真を見たマリコさんが驚いたような声で言った。

『え、この子ティピカ? ティピカよね? ジュンコさんのところの』
マリコさん、どうして?』
確かに、ルリコさんの手紙には『毎日、ティピカという看板猫がいる喫茶店に通っています』とある。

マリコさんはあちこちで喫茶店を経営していて、その数は20店舗を超えている。ジュンコさんは、そのうちのひとつの常連さんだったそうだ。ルリコさんが引っ越した町で、10年以上前に喫茶店を開いた。マリコさんはそのお店にコーヒー豆を卸しているという。それなら、コーヒーの味が似るのも当然だ。ルリコさんは新しい環境でも、自分にとって居心地のよい場所を嗅ぎわけたようだ。私は改めて、この自分と同姓同名の先輩の様子を嬉しく思った。

ティピカちゃんねる 1

皆様、ごきげんよう。私の名前はティピカと申します。人間と暮らして10年以上が経ち、今ではどうにか人の言葉も理解できるようになりました。

相棒のふとした気紛れで、住み慣れた土地から
蕎麦の名産地である、この町に移り住むようになりました。私の相棒のジュンコは、この町で私と同じ名前の喫茶店を営んでおります。

この町に住むまでジュンコは毎朝、地下鉄で会社に通っていましたが、今は喫茶店の2階が私たちの住居になっています。そのためか、この町に来てから私の朝食は、わずかばかり豊かになったように思えます。きょうは初がつおの粗く刻んだものが添えられていて、春の訪れを感じました。

それに、以前よりもよく話すようになりました。ただ、こちらの言っていることをむこうがどれほど理解しているのかは、甚だ疑問に思うところではありますが。我々が人間の言葉を理解するように、人間も猫の言葉を理解したならば、人間の心にもっと余裕がうまれるのではないか、という気がするのは私だけではないようです。

足音が聞こえて来ます。あれはお蕎麦屋さんの奥さんです。いつも私の好きな煮干しや鰹の匂いを奥ゆかしく、身に纏っているお洒落さんなのです。おはようを言いに行きましょう。

ジュンコ、お蕎麦屋さんの奥さんが来るよ。早く降りて鍵を開けようよ。
『なぁに? ティピカ、かつおのおかわりが欲しいの? 美味しかったのね。残念だけど、また買いに行かないとないのよ』
違うよ。かつおはおいしかったけど、僕は高校生の男の子じゃないよ。そんなにたくさんは食べないよ。
『はいはい、ごめんね。また買ってあげるからね』
と、こんなこともあるのですね。

ジュンコは髪のお団子の位置が気に入らないらしく、何度もやりなおしています。仕方がないから先に降りていましょう。

奥さんはもう、店の前に立っています。もう少し待っていてくださいね。私に気づくと
身をかがめて
『ティピちゃん、おはようさん。きょうも男前だねぇ』
と、嬉しいことを言ってくれます。奥さんもきょうも素敵ですよ。ジュンコはもうすぐ降りてきますから、もう少しお待ちくださいね。

階段を降りながら、ジュンコはようやく奥さんに気づいたようで
『あら、おばさん早いのね。どうしたのかしら?』

ようやく、鍵が開いて私は奥さんと存分に朝の挨拶ができます。きょうも芳しいですね。
『ジュンちゃん、開店前なのに悪いわね。うちのひとが、山菜採りに出かけるのに、いつもより早く起きたのよ』

奥さんがいつもの席に座ったので、私は奥さんの隣の椅子に座ることにします。ジュンコがゆっくりと、コーヒー豆を挽き始めます。私はこの音がとても好きなのです。この音を聞きたくて店に
ついてくるうちに、お客さんたちとも自然とお馴染みになりました。

『あら、ジュンちゃん、ティピちゃんのしっぽがミルの音に合わせてリズムを取っているみたいよ』
さすがは奥さん! よくわかってくれています。お礼に私のゴロゴロを、お聴きください。
『そうなの。電動のミルの方が早いけど、この子、昔からこの音が好きなものだから聴かせてあげたくて』
ジュンコがそんなふうに思っていたとは、初めて知りました。

『うちのひとったら、たまの休みぐらいゆっくりするといいのに、山菜採りの後は焼き物の職人さんのところに行くんだって。つゆをもっと引き立てる蕎麦猪口を作りたいって』
『おじさん、本当にお店のことが1番なのよね。山菜採りだって、お客さんに食べてもらいたいからでしょ? 頭が下がるわ』
『じっとしていられないなんて、マグロみたいだね。まぁ、元気だから動き回れるということかね。ねぇ、ティピちゃん』

今の奥さんの言葉は、私の耳にはそんなおじさんのことがとても好きなのだと聞こえましたよ。おじさんは若い頃に友達とバイクでこの町に遊びに来て、偶然立ち寄った蕎麦屋の味と一人娘に惚れ込んで婿入りしたのだと、お客さんから聞いたことがあります。

ジュンコがこの町に住むことになったのも、汽車の窓から見た蕎麦の畑に咲いている蕎麦の花に心惹かれたからのようです。どこに住もうとジュンコが幸せなら、私も嬉しいのです。

いつもは深煎りモカを1杯飲んで、お店に戻ってしまう奥さんですが、きょうはお店がお休みなので、ゆっくりと2杯目を楽しんでくれています。口数の少なかったジュンコが、この町に来てからは楽しそうに話をするようになったのは、奥さんのおかげもあると私は思っています。

ジュンコの相手は暫くのあいだ奥さんにおまかせして、私はちょっとだけ寝ることにしましょう。

シュンスケくん 4

マスターのお姉さんが、俺たちのケーキを運んできてくれた。そして、アサミ先輩の爪の桜を褒めた。先輩はいつものほんわかした表情に戻っていて
『お姉さんも、やったら? 絶対、似合うと思うよ』
と言った。お姉さんも嬉しそうに
『あら、そうかしら? こんな、おばあちゃんでも?』
と返していた。


先輩が厳しい表情で語ったのは、小学校の1年生だった頃、同じクラスにいた『ヒデくん』のことだった。ヒデくんは言葉が遅かったが、絵を描くのがとても好きで、いつもスケッチブックにたくさんの動物たちや花を描いて、それをにこにこしながら見せてくれたのだそうだ。

ある日の図画の授業のことだった。ヒデくんの絵を見た担任の先生が大きな声で言った。
『どうして、馬がこんな色なんだ? こんな馬、いるわけないだろう? それに、この花! 花に顔なんかあるわけないだろう? ふざけないで、まじめに描きなさい! さあ、もう1枚紙をあげるから、これに描き直して』
先生はヒデくんの絵を取り上げるとそれを破いてしまった。ヒデくんは何も言えずにただ、うつむいていたそうだ。

そのとき以来、ヒデくんは図画の授業がある日には学校を休んだり、保健室に行くようになってしまったという。それから少し経って、ヒデくんはお父さんの仕事の都合で転校したとの事だ。


『馬がピンク色だっていいよね? 私、ヒデくんには、きっと、お花たちの楽しいおしゃべりが聞こえていたと思うんだ。本物にそっくりに描けば、それが正解だなんてつまらないよね? 私なら、そんな絵は描きたくないな。あのときに先生はヒデくんの絵を描く楽しさをこわしてしまったと思うんだよ』

そう言いながら、アサミ先輩はタルトの上の苺を4個立て続けに、フォークで口に運んだ。目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
『ごめん、ごめん。ちょっと感情的な言い方しちゃったね。でもね、そのことがあってからさ、私、子どもたちが楽しく絵を描くのに寄りそえるような仕事がしたいな、って思うようになったんだ』

俺は苺タルトの、苺が食べられてクリームだけになったところを見ていた。クリームには苺の跡がくっきりと、残っていた。そのときの先生がしたことも先輩の記憶の中に、こんな風に痕を残したのだろうか。

部長のリサ先輩が目当てで、美術部に入ったケイタなんかは、よく
『アサミちゃんは天然ちゃんだよなー』
などと言っている。俺も正直、そう思っていたことがある。初めて会ったとき、アサミ先輩はリョウ先輩と一緒に、机に座ってポテトチップスの袋を抱えながら食べていた。俺が入部してからずっと、そんな調子だった。それから、1週間ほどしてようやく絵の道具の用意をし出した。

『ポテチのねーさん、どんな絵を描くのかな?』そう思ってキャンバスを覗くと、そこにはじゃれ合う3匹の子猫たちが描かれていた。それを見た途端に、たまらなく懐かしいような、優しい気持ちがこみ上げてきた。すごい絵だな。何なんだ、この人は? そのときから、俺のアサミ先輩を見る目は変わった。リサ先輩目当てで集まった絵の描き方も知らないやつらにも、画材の使い方なんかをていねいに教えてやっていた。この人、意外といいやつかも。

ヒデくんのことを聞いて、先輩の絵からにじみ出る『なにか』の手がかりが少しだけ見えたような気がする。先輩が子どもたちと楽しそうに絵を描く姿が、目に浮かんだ。その隣には、俺もいるだろうか? そうだといいな。

コーヒーを飲み終えた年配の2人連れが、立ち上がった。そして、窓の外のクレヨンを見つけて
『あら、お父さん、チャッピーが来てるわよ』
『ああ、チャッピー、元気そうだな』
と話していた。

クレヨン、おまえには一体いくつ名前がある?

シュンスケくん 3

新聞を読んでいたサラリーマンの人たちが帰ってしまうと、お客さんは俺たちの他にはマスターよりも、かなり年上に見えるご夫婦らしい2人だけになっていた。オルゴールのBGMが似合う人たちだな、と思う。

マスターがアサミ先輩を冗談とも本気とも取れるように『スカウト』してくれたおかげで、俺は話が切り出しやすくなった。
『先輩は大学、どうするの? 美大?』
俺と同じデッサン教室に来ている学生はリョウ先輩も含めて、みんな美大志望だった。
『いやー、美大は受けないかな』
『意外だな。俺、先輩は絵を極めていくのかと思っていた』
『絵はね、ずっと描いていようと思っているよ。だけどね、極められるようなものじゃないよね。楽しく描けたら、それでいいかな。シュンスケは? 美大受けるんだよね?』
『はい、そのつもりです』

美大を受けるのは、絵を本格的に描きたいと思ったからだった。俺が絵を描き始めたのは子どもの頃、近所に住んでいたペンキ職人の叔父さんの影響だった。叔父さんはいつでも、落語のテープを鳴らしながら庭で仕事をしていた。俺が遊びに行くと、俺の背よりも大きな板と余ったペンキを出して『好きなように塗っていいぞ』と言ってくれた。それが楽しくて仕方がなかった。

だけど、今回の美術展でもらったガラス製のメダルを見て、こんなに繊細な表現の方法もあるのだということを知らされた。ガラス工芸の世界への興味がどんどん膨らんできた。普段、俺が描く絵とは全く違うから、戸惑っている。ガラス工芸を勉強するなら、志望校を変えなければならないだろう。こんな場合に、アサミ先輩だったらどう考えるかを聞いてみたかったのだ。

先輩は黙って、俺の話を聞いていてくれた。そして、こう言った。
『板に描いても、ガラスに彫っても、シュンスケの絵であることには変わりないよぉ。叔父さんが言ったみたいに、好きなようにしてたら、きっといいものができるよ』
『そういうものなのかな?』
『と、私は思ってるよ。楽しいというのがいちばんだと思うな。難しく考えなくても。それに、ガラスのことは学校じゃなくても、覚えられるよね?』

先輩の言うのを聞いて、俺は力が抜けた気がした。窓の外では、クレヨンがあくびをしている。力が抜けたら、少しおなかが空いた。
『チーズケーキ、おかわりしようかな』
『少食のシュンスケが、めずらしいね。じゃあ、私は苺タルトにしよう』

ケーキが来るのを待ちながら、先輩がポツリとこんな話を始めた。
『小学校の頃、学校に絵を描く楽しさを潰されちゃった子がいたんだよ。もう、ずっと会ってないけど、今、どうしているかな?』

いつもは、ほんわかとしているアサミ先輩の厳しい表情を俺はそのとき、初めて見た。窓の外のクレヨンは先輩の横顔をじっと見ていた。