ことのはカフェ

カフェに纏わる由なしごとをそこはかとなく綴ります。

ルリコちゃん 3

ルリコさんに話したいことが、たくさんあった。先週観た映画のこと、絹さやの玉子とじが思いのほか上手くできたこと、エレベーターで乗り合わせた同じマンションの猫に『シャー』と威嚇されたこと…こんな他愛もない話は、そばにいるからこそできる話だ。これは手紙に書く程のことでもない。

とりとめのないお喋りをできる人が近くにいるって、貴重なことなんだ。このお喋りを、文字であらわそうとすると、なかなか上手くまとまらない。手入れしてもらったばかりの万年筆の書き味のよさに、私の言葉がついてこない。

マリコさんが戻ってきた。マリコスペシャルの甘味にほっこりとした後には、ふと苦味が恋しくなる。
マリコさん、エスプレッソください』
『もしかして、待ってた? ごめんなさいね。つい、にゃんこ話で盛り上がってしまって』
マリコさんはかなりの愛猫家だ。ルリコさんの新しい行きつけの喫茶店のママさんも、マリコさんのにゃんこ仲間らしい。

『そうだ、ルリコちゃん。ずっと前にね、ルリコさんが置き忘れていった本があるの。住所がわかるなら、送ってあげたらいいかしら』
マリコさんはそう言って、1冊の本を差し出した。本にはバラの刺繍がしてあるブックカバーがかけられていた。それは茨木のり子さんの詩集だった。私は書きかけの手紙をどかせて、本を捲り始めた。

人間は誰でも心の底に
しいんと静かな湖を持つべきなのだ

はじめての町に入ってゆくとき
わたしはポケットに手を入れて
風来坊のように歩く

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

詩のなかの言葉たちが、次々と目に飛び込んでくる。何だかルリコさんらしい、そう思う。ルリコさんと一緒にいて心地がよいのは、きっと、ルリコさんの心のなかの『湖』のおかげなのかもしれない。この湖は、私の他愛もないお喋りもさらりと受け止めてくれていた。新しい町ですぐに居心地のよい場所を見つけられたのも、この湖のもつ力だろう。

ルリコさんがくれた手紙には『もう少し、あたたかくなったら、遊びにいらっしゃい。この喫茶店は、あなたもきっと気に入る筈だわ』と書いてある。そのときには、積もる話をたくさん、たくさんしよう。エスプレッソの苦味と詩のなかの言葉たちが、騒がしくなりそうだった私の手紙をそっと、窘めてくれたような気がした。