ドアベルがカラン、コロンと鳴って高校生ぐらいの男の子の姿が。学校サボってきたのかしら? 私もよく、やったわね。タカコとユリと一緒に。
男の子はめずらしそうに、店の中を見回している。右を向いても猫ちゃん、左を向いても猫ちゃん。猫ちゃんグッズだらけの店へ、ようこそ。
『いらっしゃいませ。お好きなお席にどうぞ』
男の子はにこりとして、カウンターに。制服じゃないとはいえ、もっと目立たない席もあるわよ、とサボりの先輩は言いたくなる。私の心の声が聞こえる筈もなく、目の前に置いてある猫ちゃん型の塩と胡椒入れを手に取って、面白そうに眺める。それは、マリコさんがイタリアで見つけたものだった。
それから、ゆっくりとメニューを捲り始める。その手つきは午後のお茶を優雅に楽しむ奥さまみたい。私たちの頃は開放感に、ほんの少しの後ろめたさが入り混じったような気分だったわね。
『あのー、きょうはミユキ先生は…』
『ミユキ先生、ということは製菓学校の生徒さんですか? 8時には来ると思いますよ』
男の子はケイタくんという名前で、ミユキさんが非常勤講師をしている製菓学校の生徒さんだった。高校生、という以外は私の思ったとおりで午後からの授業をサボってきたという。
『ミユキ先生の授業と、お菓子作りは休みませんけどね。後で友達にノートを見せてもらいます』
ケイタくんはそう言うと、この店でいちばん深煎りのブレンドをオーダーした。そして、私の動きをじっと見ている。緊張しちゃうな。
『ミユキ先生の淹れ方と似てますね。栞さんも、ミユキ先生から教えてもらったんですか?』
『そうなの。やっぱり、似ちゃうものなのかしら』
ミユキさんは、細かいことは言わなかったけれど『そのコーヒーを飲む人の様子を想像してみて』という言葉をくれた。私は今でも、その言葉はたいせつにしている。楽しいお喋りのおともなのか、お仕事の後の1杯なのかでも、ずいぶんと違うものだ。
そのことをケイタくんに話すと
『授業だと、器具の扱い方なんかは細かく話してくれますよ。だけど、先生もやっぱり、マリコさんの子どもなんだなぁ。マリコさんも同じことを言っていました』
『マリコさんを知っているの?』
『ミユキ先生の生徒で、マリコさんを知らない人っていないと思いますよ』
ケイタくんは私の淹れたコーヒーをひとくち飲んで
『おいしいです。何だかホッとしますね』と言った。よかったわ。『授業サボり仲間』に親しみを込めて淹れた1杯、気に入ってもらえたのね。
私の『仲間』という気持ちが届いたのか、ケイタくんはこんなことを話し始めた。
『これ、まだ誰にも言ってないんですけど、マリコさんの23店舗目は俺がやりたいって思ってるんです』
『23店舗目の話があるの?』
『いえ、俺が勝手に思ってるだけなんです。23店舗目を出すときは、俺にまかせて欲しいなって』
学校がいそがしくて、大好きなおばあちゃんになかなか会いに行けないとき、授業でシュークリームの生地がうまく膨らまなかったとき、そんなときもマリコさんの淹れたコーヒーを飲んだら元気が出たそうだ。
それで、自分も誰かを元気にさせるようなコーヒーを、と思ったという。
マリコさんのまわりには、どうしてなのか、そういう人が多い。この店の中にある猫ちゃんグッズだって、マリコさんが応援している作家さんたちの作ったものがほとんどだ。ミユキさんがいつも『マリコのマは巻き込むのマ』と言っているけれど、こういうことなのだろうか。
『初めまして』なのに、ケイタくんと私はお互い、マリコさんに『巻き込まれた』話をたくさんした。いつものボンボニエールから、マリコさんのおみやげのチョコをケイタくんにも。
カラン、コロンとドアベルが鳴ってミユキさんが入って来た。ケイタくんの姿を見つけて驚いている。
『わー、どうしたの?』
私はケイタくんの方を見る。『どう? 話してみる?』ケイタくんも私の方を見る。『きょうは、やめておくよ』ほんの何時間か話しただけなのに、言葉にしなくても気持ちがわかるような気がした。
『ケイタくん、ミユキ先生のガトーショコラを食べてみたいんだって』
『お菓子はケイタの方が上手だと思うわよ』
エプロンの紐を結びながら、ミユキさんはそう言って笑った。