キョウコが大きなマグカップを両手で包むようにして、持ちながら言う。
『このお豆、家にもあるんだけど、自分で淹れたらママのと全然ちがう味になっちゃうのよね』
『そりゃあ、母さんはプロだもの。仕方ないよ』
とヒロキ。
『そうなんだけど、なんていうのかな、ママのコーヒーって、他のお店のともちがうのよ。うまく言えないんだけど』
俺には、キョウコの言いたいことが何となくわかる気がした。プロの淹れるコーヒーは確かに、どこの店でもおいしい。だけど、マリコ母さんが淹れるコーヒーは、飲むと包み込まれるような、そっと頭を撫でられているような、そんな気持ちになる。
授業でシュークリームの生地が膨らまなかった時、飴を焦がしてしまった時、俺って才能ないのかも…と落ち込んでしまう。そんな時はひとりでここに来る。そして、カウンター席に座って母さんのコーヒーを飲む。そうすると『大丈夫。好きなことだったら、だんだん上手くなっていく』という気持ちがまた戻って来る。
ここに集まるお客さんたちの中には、きっと俺と同じ気持ちの人がいるだろう。窓際の席でコーヒーを飲んでいるピエールさん
と、ふと目が合う。日本の文学が好きで来日して、この近所に住んでいる。
俺はマグカップを持って、ピエールさんの席に向かう。
『ピエールさん、こんにちは』
『やあ、ケイタくん。きょうは彼女と一緒じゃないんだね』
『きょうは、学校のみんなと来ました。授業でクッキー作ったから、よかったら食べてください』
『かぼちゃと小豆のクッキーか、いとこ煮みたいだね。ありがとう。どうだい、座らないか?』
『じゃあ、遠慮なく』
俺はピエールさんのテーブルにお邪魔する。
『何、読んでるんですか?』
ピエールさんは本を持ち上げて、俺に見せる。『陰翳礼讃』だった。この店には母さんが自分でデザインや製本を手掛けた『日本文学選集』が並べられていて、誰でもコーヒーを飲みながら読むことができた。
『内容も、勿論好きなんだけどね、このマリコさんの挿絵が見たい、ということもあってね』
『さりげなく、猫を登場させますよね。本文と関係ないところでも』
『マリコさんだからねぇ』
ピエールさんはにやりとして言う。母さんの猫好きは常連さんの間では知れ渡っていた。
ピエールさんは母さんの挿絵を指さしながら言う。
『だけど、この猫の髭1本1本まで丁寧に描いているのは見事だと思わないかい? それだけで、猫の表情が全く違って見えるんだから。マリコさんの丁寧さは、日本の職人さんの仕事に通じる気がするんだよ』
なるほど、職人さんか。確かに、母さんの仕事は何もかもが丁寧だ。コーヒーを淹れている時には、コーヒー豆に語りかけているようにも見える。それが、母さんのコーヒーの秘密なんだろうか。
『このコーヒーの1杯にしても、そうかもしれませんね。俺、ここのコーヒーを飲むと、元気が出るんです』
ピエールさんも、ひとくち飲んで言う。
『ケイタくんも、そうなのか。僕が初めて日本に来たときは、谷崎先生の暮らした町に住んでいたんだ。だけど、マリコさんのこのコーヒーが飲みたくて、ここに移って来たんだよ』
『え? コーヒーのためだけに?』
『祖母のコーヒーに似ているんだ。日本で暮らしていると、簡単には祖母に会いに行けないからね』
ピエールさんも、おばあちゃん子なんだ。何だか親しみがわく。
『俺のクッキーも、ばあちゃんが作ってくれる、かぼちゃのぜんざいをもとに考えたんです』
『そりゃあ、食べるのが楽しみだ』
マリコ母さんが銀のトレイにシュークリームをたくさんのせて、各テーブルに配り始める。
『ケイタの学校の先輩からの差し入れよ。ピエールも食べて』
『このシュークリーム、丸くなってる猫によく似ているね』
『あら、私もそう思っていたわ。気が合うわね』
キョウコたちが、俺たちの方に歩いてきた。
『ピエールさん、私たちの作ったクッキーもどうぞ』
『やあ、ありがとう。僕のお腹も猫みたいに、丸くなりそうだね』
と笑う。俺より日本語、うまいかも。