ことのはカフェ

カフェに纏わる由なしごとをそこはかとなく綴ります。

ケイタくん 2

キョウコが大きなマグカップを両手で包むようにして、持ちながら言う。

『このお豆、家にもあるんだけど、自分で淹れたらママのと全然ちがう味になっちゃうのよね』

『そりゃあ、母さんはプロだもの。仕方ないよ』

とヒロキ。

『そうなんだけど、なんていうのかな、ママのコーヒーって、他のお店のともちがうのよ。うまく言えないんだけど』

 

俺には、キョウコの言いたいことが何となくわかる気がした。プロの淹れるコーヒーは確かに、どこの店でもおいしい。だけど、マリコ母さんが淹れるコーヒーは、飲むと包み込まれるような、そっと頭を撫でられているような、そんな気持ちになる。

 

授業でシュークリームの生地が膨らまなかった時、飴を焦がしてしまった時、俺って才能ないのかも…と落ち込んでしまう。そんな時はひとりでここに来る。そして、カウンター席に座って母さんのコーヒーを飲む。そうすると『大丈夫。好きなことだったら、だんだん上手くなっていく』という気持ちがまた戻って来る。

 

ここに集まるお客さんたちの中には、きっと俺と同じ気持ちの人がいるだろう。窓際の席でコーヒーを飲んでいるピエールさん

と、ふと目が合う。日本の文学が好きで来日して、この近所に住んでいる。

 

俺はマグカップを持って、ピエールさんの席に向かう。

『ピエールさん、こんにちは』

『やあ、ケイタくん。きょうは彼女と一緒じゃないんだね』

『きょうは、学校のみんなと来ました。授業でクッキー作ったから、よかったら食べてください』

『かぼちゃと小豆のクッキーか、いとこ煮みたいだね。ありがとう。どうだい、座らないか?』

『じゃあ、遠慮なく』

俺はピエールさんのテーブルにお邪魔する。

 

『何、読んでるんですか?』

ピエールさんは本を持ち上げて、俺に見せる。『陰翳礼讃』だった。この店には母さんが自分でデザインや製本を手掛けた『日本文学選集』が並べられていて、誰でもコーヒーを飲みながら読むことができた。

 

『内容も、勿論好きなんだけどね、このマリコさんの挿絵が見たい、ということもあってね』

『さりげなく、猫を登場させますよね。本文と関係ないところでも』

マリコさんだからねぇ』

ピエールさんはにやりとして言う。母さんの猫好きは常連さんの間では知れ渡っていた。

 

ピエールさんは母さんの挿絵を指さしながら言う。

『だけど、この猫の髭1本1本まで丁寧に描いているのは見事だと思わないかい? それだけで、猫の表情が全く違って見えるんだから。マリコさんの丁寧さは、日本の職人さんの仕事に通じる気がするんだよ』

 

なるほど、職人さんか。確かに、母さんの仕事は何もかもが丁寧だ。コーヒーを淹れている時には、コーヒー豆に語りかけているようにも見える。それが、母さんのコーヒーの秘密なんだろうか。

『このコーヒーの1杯にしても、そうかもしれませんね。俺、ここのコーヒーを飲むと、元気が出るんです』

 

ピエールさんも、ひとくち飲んで言う。

『ケイタくんも、そうなのか。僕が初めて日本に来たときは、谷崎先生の暮らした町に住んでいたんだ。だけど、マリコさんのこのコーヒーが飲みたくて、ここに移って来たんだよ』

『え? コーヒーのためだけに?』

『祖母のコーヒーに似ているんだ。日本で暮らしていると、簡単には祖母に会いに行けないからね』 

 

ピエールさんも、おばあちゃん子なんだ。何だか親しみがわく。

『俺のクッキーも、ばあちゃんが作ってくれる、かぼちゃのぜんざいをもとに考えたんです』

『そりゃあ、食べるのが楽しみだ』

 

マリコ母さんが銀のトレイにシュークリームをたくさんのせて、各テーブルに配り始める。

『ケイタの学校の先輩からの差し入れよ。ピエールも食べて』

『このシュークリーム、丸くなってる猫によく似ているね』

『あら、私もそう思っていたわ。気が合うわね』

 

キョウコたちが、俺たちの方に歩いてきた。

『ピエールさん、私たちの作ったクッキーもどうぞ』

『やあ、ありがとう。僕のお腹も猫みたいに、丸くなりそうだね』

と笑う。俺より日本語、うまいかも。