ことのはカフェ

カフェに纏わる由なしごとをそこはかとなく綴ります。

カホコさん 2

猫の貼り紙に見入っている先生の後ろ姿を、眺める。背筋がすらりと伸びていて、それでいながら柔和さも感じさせるような。

迷子になってしまった猫を見つけるためのポスターなので、目立たないと意味がない。だけど、せめてあのオムライスのような色使いではなくて、えび天丼ぐらいの色合いだったら、この壁にもうまく馴染んでいただろうな。

先生が戻ってきた。
『やっぱり、そうでした。あの無愛想な顔つきが、猫好きにはたまらないようですね。僕の友だちにもユキ君ファンがいますよ。早く見つかるといいですね』

茶色のシマシマの猫だけど、ユキっていう名前なのね。真っ白な猫みたいな名前だ。私はどちらかというと犬の方が好きなので、睨みつけるような顔をした猫よりも、尻尾を勢いよく振ってじゃれついてくるわんこ達の方が率直に可愛く思える。

先生が注文した羊羹と、私のあんぱんがコーヒーと一緒に運ばれてきた。
黒い漆塗りのお皿に載った羊羹を見て、思わず
『きれい』とつぶやく。

先生はにこりとして言った。
『やっぱり、思ったとおりでした。照明を落としているこのお店なら、絶対に羊羹の美しさが引き立つだろうな、と。陰翳礼讃の文章を思い出しますね』

『陰翳礼讃』の中の羊羹の話。
漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさをふくんでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。

先生が言っているのは、この箇所のことだろう。
私もひとりでこのお店に来るときには鞄に文庫版の『陰翳礼讃』を入れてくる。先生の口から同じ本の名前が聞けて嬉しい。

『先生も、谷崎潤一郎をお読みになるんですね』
『先生も、とおっしゃるということは、カホコさんも谷崎先生ファンなのでしょうね』
『はい、特に陰翳礼讃はよく読みます』
私は心の中で『そして、タケオ先生のファンでもありますよ』とつけ加えた。

私のあんぱんは朱色の漆塗りのお皿に載っていて、千鳥が金色で描かれていた。先生の羊羹のお皿と色違いだ。千鳥の文様は大抵は2羽で波の上を飛ぶ姿が描かれている。それには『2人で荒波を一緒に乗り越えていける強い絆を結ぶ』という意味がこめられているのだ、と聞いたことがある。強い絆、先生との間にできたらいいな。

壁のポスターの猫が、また睨みつける。『俺様の魅力がわからない奴に、タケオ先生は似合わないぜ』私は猫に言い返す。『私たちには、谷崎先生という強い味方がいるのよ』猫は負けていない。『お前さんは谷崎先生が大の猫好きだと知らないのか?』『だったら、何よ。あなたこそ、飼い主さんを心配させないで、早くお家に戻りなさいよ』猫が少し怯む。

『カホコさん、カホコさん』
先生の声で、我に返る。
『カホコさん、コーヒーが冷めないうちにいただきましょう』
『あ、私、猫舌なんです』
ポスターの中のユキ君がニヤリとする。

今のところ、引き分けだな。