ことのはカフェ

カフェに纏わる由なしごとをそこはかとなく綴ります。

アキノブさん 1

タカコさんは窓側の席で、本を読みながら煙草を吸っていた。普段リビングで見るのとほとんど変わらない様子だ。時々、頬を緩ませる。ここからは見えないけれど、読んでいるのはたぶんマンガ本だろう。

『遅くなってごめん。先に食べていたらよかったのに』
俺がテーブルに近づいて、声をかけるとようやく気づいて顔を上げた。やっぱりマンガ本を読んでいたようだ。
『来る前に、きのうのおでんの残りを食べてきたの。だから、お腹は大丈夫』
『なら、いいけど。俺の大根とつみれ、残しておいてくれた?』
『残しておいたわよ』
ああ、よかった。特に大根は次の日の方が一層うまい。

エプロンをした背の高い金髪の男の子が注文を聞きに来た。
『ホットサンドとブレンドください。アキちゃんは?』
ナポリタンと、俺もブレンドお願いします』
男の子は慣れない手つきでオーダーを書くと、深々とお辞儀をしてカウンターに戻っていった。

『ほんとナポリタン、好きだよね』
『そっちこそ、いつもホットサンドだろ』
タカコさんはニヤリと笑った。俺の言葉に笑ったのか、マンガに笑ったのか、どっちだろう?

『試合、どうだった?』
『ジュリのチームが勝ったよ。だけど、兄弟で違うチームだと片方だけ応援するわけにもいかなくて』
『トーマくん、へこんでなかった? 弟のチームに負けて』
『あいつはどこか落ち着いたところがあるから、意外と平気そうだったよ』
『上の子って、そういうところがあるかもしれないわね』

甥っ子たちはそれぞれの中学校で、バスケットの部に入っていて、今日はその練習試合だった。仕事で多忙な兄夫婦の代わりに俺が応援に行ってきたのだ。
ジュリが『勝ったから、寿司をごちそうしろ』とごねたが、これから叔母さんとデートだからと断った。タカコさんは自分が教えている高校の生徒の絵画展を観た帰りだった。

『絵はどうだった?』
タカコさんはマンガ本を鞄にしまうと携帯を取り出して、撮ってきた生徒たちの絵を見せてくれた。
『ほら、この絵。前に話したアサミさんの絵よ。栞ちゃんと私をイメージして描いてくれたらしいの』
『本物より、ずいぶん若くない?』
『あら、アサミさんの目は確かよ。アキちゃんこそ、コンタクト作り直したら?』
相変わらず、全面的に生徒の味方だ。俺もタカコ先生の生徒だった頃には、ずいぶんと助けてもらったのだけれど。

ホットサンドとナポリタンが運ばれて来た。金髪の彼は不器用そうにカトラリーを置く。カチャカチャと音が響く。その音をそっと庇うかのように、ピアノの演奏が始まった。

この店のピアノはお客さんも自由に弾いてよいことになっている。ピアノの前に座っているのは、真っ白になった長髪を後ろで束ねたおじいさんだ。このメロディーは兄がよくカラオケで歌う曲だ。おれのあん娘は煙草が好きで、とかいう歌い出しだった筈だ。

まだ高校生だった頃の俺は、この歌詞を聞くといつも職員室で煙草を吸っていたタカコ先生の横顔を思い出していた。

栞さんのボンボニエール 4

クリスマスが近づいている。店でも、いつも来てくださるお客さんたちに何か楽しいものをお届けしたい、ということで開店時間よりも早めに店に入って少しずつ準備を始めている。外はまだ、うす暗い。

カラン、コロンとドアベルが鳴る。ミユキさんかな? と思ったけど、違うみたい。入口の側に置いてある大きなクリスマスツリーのかげから
『にゃあー!』
という声がして、スコティッシュフォールドの編みぐるみが顔を覗かせる。それに続いて、モスグリーンのマフラーをふわりと巻いたタケオさんがクリスマスツリーの後ろから現れた。
栞ちゃん、おはよう』

ときどき、見た目からは想像できないことをする人だ。黙っていると、一昔前のアイドルみたいなのに。
『タケオさん、今日はずいぶん早いですね』
『今週から、開店前にクリスマス用の飾り付けをするってミユキちゃんから聞いたよ』
タケオさんは手に大きな紙袋を提げている。
『これ、差し入れ。あと、こっちはボンボニエールさんのごはんだよ』

バウムクーヘンと、きれいなリボンのかかった袋に入った飴。タケオさんは編み物の先生をしているだけあって、女性うけのよさそうな物を選んでくれる。私の入れておいたコンビニで買ったのど飴より、タケオさんの飴の方が、このボンボニエールにはよく似合う。バウムクーヘンはミユキさんが来たら、早速いただこう。

ミユキさんがかけ込んで来た。ドアベルが激しく揺れて、けたたましく鳴っている。
栞ちゃん、ごめん! 寝坊しちゃった』
ミユキさんのコートにはクリーニングのタグが付いたままになっていた。
『急がなくても、よかったのに』
『だって、栞ちゃんは開店準備もあるし。あらタケちゃん、どうしたの?』
マリコ母さんから、オーダーが入ってね。ほら』

大きな紙袋からは、猫の手のかたちのミトン、猫の耳が付いたニット帽、編みぐるみなどが次々とあらわれた。
『お客さんへのクリスマスプレゼントだって。ラッピングは任せるって言ってたよ』

マリコさんは相変わらず、太っ腹だ。タケオさんのニット作品は普通に買うと、それなりの値段にはなる。最近は店に立つことはないけれど、お客さんを好きな気持ちは持ち続けているのが伝わってくる。
『このスコティッシュフォールドの編みぐるみは、ぜひトモノリさんに渡して欲しいって』

編みぐるみの顔をよく見ると、少しだけ気が弱そうなところがトモノリさんによく似ている。
ミユキさんと私は顔を見合わせて、同時に
『トモノリさんだ!』
と言った。
タケオさんは少し、ホッとしたように
『わかって貰えてよかった。トモノリさんの顔を思い浮かべながらデザインしてみたんだ』
と満足そうな表情をした。

それぞれの作品のラッピングのイメージが決まるとミユキさんは
『一段落したから、コーヒー飲もうか』とカウンターに入った。
『遅れたおわびに、きょうは私に淹れさせて。何がいい?』
と言いながら、いつものジャムの空き瓶に100円玉を3つ入れた。この壜は、ミユキさんと私がコーヒーを飲む時に100円玉を入れて、貯まったらチサトさんの保護猫団体にお渡ししているものだった。

タケオさんの差し入れのバウムクーヘンとミユキさんの淹れてくれたコーヒーで、ホッと一息。早朝の静けさが心地よい。朝が弱いミユキさんはまだ少し、眠たそうだ。だけど、コーヒーの味は流石にプロだな。マリコさん、ミユキさん、タケオさん、やっぱり親族なんだな。どことなく、似たところが感じられる。好きなことに対してまっすぐなところとか。

ふと、しばらく会えていない兄のことを思い出した。クリスマスに電話でもしてみようかな。よく、私のボンボニエールから飴をこっそりと食べていたっけ。それでよく、喧嘩をしていた。喧嘩の後で、兄が自分の夕飯のおかずのコロッケを1つだけ私の皿にのせてくれて、仲直りが成立したものだ。私たちは食いしん坊なところが似ているのかも。そして、食いしん坊の私はおいしいバウムクーヘンのおかわりをしよう。ミユキさんは眠たそうな笑顔でバウムクーヘンを大きく切り分けてくれた。

ミユキさん 4

タケちゃんがお店に入って来た。
アイボリーのざっくりしたニットがよく似合っている。
『ミユキちゃん、ごめんね。お待たせしちゃって』
『よろしくてよ、王子さま。どうぞお座りになって』
『え? どうしてそれを』

タケちゃんはママさんの方を振り返る。
ママさんはニヤリと笑った。
『まいったなぁ。僕はその呼び名は本当に、勘弁して欲しいよ』
そう言って、タケちゃんは肩をすくめた。

『ごめん、ごめん。もう言わない。お休みなのに、生徒さんが来てたいへんだったわね。お疲れさま』
『たいせつなご家族へのプレゼントだからね、僕も何とかしようっていう気になるよ』

タケちゃんに続いて、サラリーマン風の男性が1人、それから制服姿の女子高校生が3人、小学生の男の子を連れた女性がお店に入って来る。

うちの店でも、あるお客さんが来ると同時に店が活気づく、ということがよくある。木曜の午後に来てくれるショートヘアを金髪に染めた女性。いつも窓側の席でミルクティーを飲む。このお店にとってはタケちゃんがそういう存在なのかもしれない。

タケちゃんがクリームをたっぷりとのせて、シフォンケーキをおいしそうに食べているのを見ていたら、私ももう1つ食べたくなってきた。
『ミユキちゃん、ケーキが気に入ったみたいだね。お米だと言われないと、わからないでしょう?』
『何だか、優しくて懐かしい味よね。それに、この食器のシンプルさが妙に心地よくて』
私がそう言うと、タケちゃんはクスッと笑った。

マリコ母さんの世界とは、正反対だって言いたいみたいだね』
『わかってるなぁ、タケちゃんは。この間もね、また猫グッズが送られて来たのよ。おままごとに使うようなテーブルでしょ、それからスコティッシュフォールドの抱き枕、それにワイングラス。ママは私の部屋を自分の倉庫だとでも思っているのかしらね?』
『あはは、そうかも。だけど、マリコ母さんの好きな物に対する正直さは、見事だと思うよ。猫って、そういうところない? マリコ母さんは性格が猫に近いのかもしれないね』

なるほど。ママを猫だと思えば、あの大量の猫グッズにも目をつむることができるのかもしれない。確かに、あの気ままさは猫のようだ。だけど、やっぱりこのお店の徹底的な無駄のなさはとても、居心地がいい。

『僕もね、何か新作を編もうとするとき必ず、ここに来ることにしているよ。うっかりすると、作品が凝り過ぎて、普段使いしにくいものになっちゃってね。そのショールも、合わせる服を選ぶでしょう?』
『そうね。でも私、これとっても好きなのよ』
『ありがとう。だけど、お客様には決してお手頃というわけではない僕の作品を買っていただくわけだから、フル活用してもらえるようにしないと…と思うよ。ここに来ると、必要最小限とはどういうことかを思い出せる気がして』

お米のシフォンケーキの2つめを食べながら、優しいなかにも、なにかしっかりとした芯のようなものを感じていた。やっぱり、タケちゃんと似ている気がした。

ミユキさん 3

女性の2人連れが入ってくる。そして、私のテーブルの端に向かい合わせに座った。2人はお米のシフォンケーキにミルクティーとコーヒーをそれぞれに注文した。2人のやりとりが耳に入ってくる。

『最近ね、うちの子が猫が欲しいって言っているの。それで、猫ぐらしの先輩のお話を聞かせてもらいたいと思って』
『どんな子がいい?』
『私、犬しか飼ったことないから、猫のことはよくわからないの。でもね、うちの子が結構お転婆だから、それに付き合ってくれそうな猫ちゃんだと助かるわ』
『だったら、少しおとなの猫が合うかもしれないわね。ペットショップだと子猫しかいないけど、保護猫だったら色々いるから。うちの子もそうだったのよ。キャットレスキューっていう施設があるの。そこだったら、親身に相談にのってくれると思うわ』

キャットレスキュー! チサトおばちゃんのところじゃないの。世間って狭いわ。馴染みの深い名前が出てきたので、つい、聞き耳を立てる。

『そこの代表の方はね、猫を譲り受けてからも何かと気にかけてくれて、お願いすると猫のケアもしに来てくれるの。気のせいかもしれないけど、猫の言葉がわかっているように見えてね。アドバイスされたことをしてあげると、猫がどんどん元気になるのよ』

そう、私もずっとそう思っていた。チサトおばちゃんは絶対に、猫たちと会話している。
『チサトが遊びに来ると、猫たちが本当に嬉しそう。チサトにだけは、こっそり秘密の話をしているみたい』
ママもよく、こう言っている。

『ここから、そんなに遠くないのよ。帰りに寄ってみる?』
『いいわね。行ってみたいわ』
私も久しぶりにチサトおばちゃんに会いたい。だけど、知らない人たちに便乗するわけにはいかないし。
だから、心の中で『チサトおばちゃんによろしくお伝えくださいね』と言う。


ここのお店のコーヒーはブラジルのようだ。うちのブラジルよりも浅めに焙煎している。ママには怒られるかもしれないけど、私はこっちの方が好きだ。

茶店にひとりでいるのが苦手なのは、同業者がスパイに来ていると思われたらどうしよう、と自意識過剰になってしまうからだ。だけど、こうして『お客さん』になると、改めて人に淹れてもらったコーヒーの美味しさが身にしみる。

ひとり暮らしの人、家族の中でもいつも『つくる側』の人。そういう皆さんのために、私も一杯ずつ心を込めて淹れないとね。ふと、初心を思い出す。タケちゃん、素敵なお店を教えてくれてありがとうね。

また携帯が鳴る。タケちゃんだ。私がまだお店にいると知って、驚いている。
『ミユキちゃん、よくお店に残っていたね。居心地いいでしょ? 今、生徒さんが帰ったところだよ。僕もやっぱりシフォンケーキ食べたいから、行こうかな。あと15分ぐらい待てそう?』

私は王子を待つために、コーヒーをおかわりすることにした。

ママさんがブラジルを運んで来てくれた。
『タケちゃん、やっぱりこれから来るそうです。どうしても、シフォンケーキをいただきたいみたいで』
『まあ、嬉しいこと』

気がつくとお店の中は、ママさんと私だけになっていた。さっき猫の話をしていたお2人さんは今ごろチサトおばちゃんのところにいるのかもしれない。猫ちゃんとのよい出会いがありますように!

『カウンター席にいた彼女もね、タケオ先生の大ファンなんですよ。もう少し待ってたら、会えたのに』

タケちゃんのファンは幅広いのね。モテている割には、普段まわりに女の人がいない。ママと私、それに栞ちゃんぐらい。昔は『独身貴族』という言葉が使われていたけど、タケちゃんはその典型だと思う。王子というあだ名はやっぱり、しっくり来るようだ。

ミユキさん 2

言われてみると、確かにタケちゃんには『王子』と呼ばれる要素がないこともない。まずは、その語り口だ。静かでゆっくりしていて、時には女性的とさえ思える程の言葉を選ぶ。タケちゃんと話していると、自分が普段、いかに言葉に対して無頓着であるのかに気付かされる。

そして、誰にでもわけ隔てなくやさしい。そのうえ見た目も華奢な印象なので、絵本に出てくる王子さまのような恰好をしたら似合ってしまいそうだ。だけど、私は子どもの頃からずっと見ているので特に気にしたことはなかった。

『タケオ先生はよく、この店にも生徒さんたちとご一緒に来てくださっていますよ。生徒さんたちが目をハートマークにして、王子と呼んでいるので、私もつい』
お店のママさんは、そう言って笑った。
『先生は、王子は勘弁してくださいよ、と困った顔をするのですけど、その表情がファンにはたまらないみたいですね』
『目に浮かびます。いとこは子どもの頃から、本当にシャイでしたから。だけど、いたずらっ子のような面もありますよ』

私はタケちゃんが、大の猫好きである家のママのために編んでくれたワンピースの話をした。それは三毛猫のような柄のワンピースで、白地にところどころ茶色と黒のブチを思わせる模様が編み込まれていた。ママは
『三毛ちゃんみたいで可愛いわね』
と大喜びだったが、よく見ると後ろには猫の尻尾に見立てられた細長いパーツが縫いつけられていて、ぶらぶらと揺れていた。
『これじゃ、幼稚園の学芸会の衣装みたいだわ。まったく、タケオの悪ふざけったら』と苦笑いした。そう言いつつも、ママは三毛ちゃんワンピースを部屋着として愛用している。歩くたびに尻尾も揺れる。


カウンター席でモスグリーンの毛糸を編んでいた女性が、クスクス笑っている。
『このお嬢さんもタケオ先生の生徒さんですよ』
女性が私の方を見て会釈をしたので、私も
『どうも、タケちゃんがいつもお世話になっています』
と挨拶をした。


お米のシフォンケーキには、白いクリームが添えられていた。
『このクリームも、お米でつくっています。是非、一緒に召し上がってみてくださいね』


小麦粉が食べられない、という人のためにお米の粉で作ったパンがあるけれど、ケーキは初めて食べる。今までに食べたケーキよりもしっとりとして、やさしい味だった。ママさんの話によると、お砂糖の代わりにお米でできた水飴を使っているのだそうだ。クリームもなめらかで、初めてなのに何だか懐かしい味がした。タケちゃんが絶賛するのが、よくわかる。心がきゅん、とした。やっぱり日本人にはお米が合っているのかもしれない。

柔らかくてあたたかい毛糸に、やさしい甘さのお米のシフォンケーキ。どちらもタケちゃんの雰囲気に似ているような気がする。その柔らかさを子どもの頃は男の子たちから随分とからかわれたことがあって、学校生活があまり楽しくはなかったようだ。でも今はたくさんの生徒さんたちが『王子さま』と慕ってくれて、好きな編み物に専念している。タケちゃんはいつも楽しそうにしている。私にはそのことが、嬉しかった。

ミユキさん 1

お米のシフォンケーキ、と手描きのポスターが窓に貼られている。ここみたい。タケちゃんの姿はまだ見えない。喫茶店の経営に関わっている私がこんなことを思うのは、おかしいかもしれないけど、1人で喫茶店に来るのは苦手だ。だから、タケちゃんが着いたら一緒に入ろう。

携帯が鳴る。
『あ、タケちゃん? 今、お店の前にいるけど』
タケちゃんは申し訳なさそうな声で急に生徒さんが来ることになったから、行けなくなったと言った。
『僕から誘っておいて、ごめんね。生徒さんがクリスマスまでに、どうしても家族全員分のマフラーを仕上げたいから、今から教えてほしいって』

タケちゃんは私と同い年のいとこで、編み物の先生をしている。
『ミユキちゃんは僕が行かないと、お店に入らないで帰っちゃうかもしれないけど、お米のシフォンケーキ、おいしいから絶対食べてみて。じゃ、また電話するね』

お見通しだ。タケちゃんが来ないと言った時点で私の足はもう駅の方に向かっていた。だけど、ここは『絶対食べてみて』というタケちゃんの言葉に従ってみようか。

お店の方に引き返して、恐る恐るドアを開ける。
カシミアのニットを着た柔らかい雰囲気の年配の女性がにこやかに迎えてくれる。カウンター席とそれぞれ10人以上は座れそうな大きなテーブル席が2つ。お店の中は陽当たりがよくて、明るい。

カウンターの端の席では、制服姿のどこかの会社の事務員さんらしい女性が編み針を動かしている。モスグリーンの毛糸。恋人へのクリスマスプレゼントなのかも。タケちゃんの生徒さんの話を聞いたばかりなので、つい、そんな想像をする。最近は手編みのプレゼントなどあまり聞かなくなったけど、誰かを思いながら編み物をしている人の姿は見ていても心が和む。

ビニールのケースに手書きのメニューが入っている。お米のシフォンケーキ(ドリンク付き)
ホットコーヒー、アイスコーヒー、紅茶(ミルク、レモン)メニューに書かれているのはこれだけだった。

ずいぶんと、あっさりしている。うちの店はママの趣味の延長だから、コストのことなどお構いなしで、好きな物をぎゅうぎゅう詰めにしてある。例えば、店のあちこちに置いてある猫グッズ。メニューにしても、このお店のような潔さがない。ママが美味しいと感じたものを何でも出している。店長の栞ちゃんはママと趣味が合っているから、とことんまで付き合ってくれている。

タケちゃんはシフォンケーキにかこつけて、このお店の様子を見せたかったのかな? そう思ってしまうほど、うちとは対照的だ。

ケーキとホットコーヒーが運ばれて来る。食器も白い無地で、いたってシンプルだ。なぜか、ほっとする。
『お客様、素敵なショールですね』
私が今、羽織っているショールは10年ほど前にタケちゃんが編んでくれたものだ。凝ったお花のモチーフを合わせたもので、完成まで3か月かかったらしい。

お店の女性の柔らかさに、つい、タケちゃんの話をしてしまう。
『もしかして、いとこさんと仰るのは、タケオ王子のことじゃありませんか?』

タケちゃんに熱烈なファンがいることは人づてに聞いてはいたけど、まさか王子呼ばわりする人に会うとは思っていなかった。

栞さんのボンボニエール 3

おかげさまで、今日もランチセットが完売した。平日はごはんとお味噌汁のセットにすることが多い。鮭と舞茸のごはんに里芋のお味噌汁。それにブロッコリーのサラダを添える。午後からもお仕事、頑張ってくださいね!という思いを込めて。

カラン、コロンとドアベルが鳴って『キャットレスキュー』のチサトさんが入ってくる。咳をしている。
『猫を迎えに行ってたから、朝から何も食べる時間なかったの。まさか、猫缶食べる訳にもいかないし。あー、お腹すいた』
と言って、いつものカウンター席に座った。

午後4時。猫ちゃん相手のお仕事だから本当に時間の融通がきかないだろうな。
『わー、お疲れさま。今、コーヒー淹れるから、蒸しパン食べてて』

八百屋さんのお父さんが今朝、売り物にするには小さすぎると言って持ってきてくれたさつま芋とりんごで蒸しパンを作っておいたのだ。だからメニューにはない。チサトさんの定番はブラジルなので、ちょうどよかった。
『あー、生き返ったー』
と、猫のような伸びをすると、腕にはたくさんのひっかき傷があるのが見えた。チサトさんはこの傷のことを勲章だと言って笑う。

チサトさんはこの店のオーナーのマリコさんのお友達だ。保護猫活動の合間によく立ち寄ってくれる。
『チサトさん、今、かぎしっぽの猫ちゃんっている? お客さんで里親さんになりたがっている人がいるの』
『かぎしっぽの子か。今、うちにはいないなあ。しあわせを運んできてくれると言うわよね。保護したら、連絡するわね』
チサトさんはメニューを捲りながら答えた。そして、ツナサンドを追加してくれた。

『この間ね、ペットショップで見かけて気に入ったけど、なかなか懐かないから引き取ってくれっていうことがあったの。1ヶ月くらいじゃ、相性なんてわからないと思うけどね。新しい環境に馴染むのに、時間がかかる子だっているのよ。だから、もっと長い目で見てほしいわ』
そう言って、咳き込んだ。

長い目で見る。ふと、この店で働き始めたばかりの頃の自分を思い出す。コーヒー豆の名前を覚えて、お客さんのお顔を覚えて、サンドイッチをくずれにくくする方法は…と、マリコさんとミユキさんが1から丁寧に教えてくれたことは、数えあげたらきりがない。

うっかりお皿を割ってしまったことだってある。そのお皿は今ではすっかり有名になってしまった陶芸家の初期の作品で、猫の姿がレリーフで表現されている。お給料で弁償しないと、と思っていたがマリコさんは
『猫ちゃんの可愛いお顔のところが無事でよかったわ』
と言っただけで、一言も怒らなかった。

その後、お皿には金継ぎがほどこされ、今でもずっと、たいせつに使われ続けている。猫ちゃんたちも末長くたいせつにされてほしいものだ。

チサトさんはツナサンドを片手に、メールを打ち続けている。タウン誌の取材が来てから、問い合わせが倍になったらしく、チサトさんはフル稼働している。メールを打つ速さは女子高生と競争しても、負けないだろうな。ときどき電話もかかってくる。せめて、この店にいる間だけでもゆっくり寛いでもらいたい、と思うのだけれど。

また、携帯が鳴る。
『わかった。すぐ戻る』
チサトさんが電話している間に、食べかけのツナサンドをアルミホイルに包む。ボンボニエールを開けて、のど飴を一掴み。そうだ、猫ちゃんたちのおみやげにランチのお味噌汁用の煮干しも。急いで紙袋に詰めて、リレーのバトンパスのように手渡す。
栞ちゃん、悪いわね。また来るから』
『チサトさん、喉、お大事にね』

いつも営業時間中には登場しないボンボニエールが、今日は大活躍だ。急に寒くなったせいか、咳をしているお客さんが多かった。その度にのど飴をお渡ししていた。毎朝ハワイコナを飲みに来てくれるお客さんも、声がガサガサしていた。いつもは聞き惚れるようなテノールなのに。

植木屋さんのお兄さんは、今日も元気だった。剪定した松の葉をお茶にして飲んでいると言っていた。松のお茶を飲み始めてからは疲れ知らずだそうだ。
『うちの若い奴らにも飲ませてみたけど、コーラの方が好きだって言われたよ。まあ、無理強いするものじゃないから』
松のお茶か。松林を歩くと清々しい気持ちになるものだ。喫茶店でも松のお茶をお出ししたら、お客さんたちに松林をお散歩しているような爽快な気分を味わっていただけるかもしれない。

電話が鳴る。チサトさんだった。おみやげの煮干しを猫ちゃんたちがとっても気に入ったらしく、仕入れ先を教えてほしいという話だ。この煮干しはマリコさん行きつけの割烹のご主人が使っているのと同じものだ。猫ちゃんたち、なかなかのグルメだな。

受話器の向こうでは、まだ咳き込んでいる声が聞こえる。当分の間は、ボンボニエールをのど飴でいっぱいにしておいた方がよさそうだ。
『ねえ、チサトさん。猫ちゃんの喉のゴロゴロって音、風邪に効くって聞いたことがあるわ』
『あー、今いる子たち、新入りばかりだからまだゴロゴロしてくれないのよ。あ、痛い!』

なるほど。ゴロゴロを聞くのには、まだ時間がかかりそうだ。だけど、チサトさんならだいじょうぶだろう。必ず、どの猫ちゃんとも仲良しになれる。長い目で見ていよう。