マリコ母さんが、コーヒーのおかわりを注ぎにきた。『ごゆるりブレンド』は長居したいお客さんへのサービスで、マグカップに3杯までおかわりできた。3杯まで、というのはお客さんの胃をいたわってのことらしい。ミユキ先生が言っていた。
今、俺たちが『ごゆるりブレンド』を飲んでいるこのカップ、このカップのデザインをしたのは、ピエールさんの奥さんだ。持ち手の位置が工夫してあって、持ちやすい。ピエールさんはこのカップに惚れ込んで、母さんに『カップを作った人に会わせて欲しい』と頼み、そこから奥さんと親しくなった。
『ねえ、ママ。さっきの3人の猫の絵、見たいな』
ミサキが言う。ミサキの家にはロシアンブルーという猫が10匹いる。俺には皆おなじグレーの猫に見えてしまうけれど、ミサキや家族の人たちにはちゃんとそれぞれの違いがわかるのだから、すごい。愛だな。
母さんは俺たちのカップを満たすと、グラフィックデザイン学校の3人がシュークリームのメニュー表のために描いた絵をミサキに手渡した。
『かわいい。ふんわりしていて、シュークリームのイメージとも、合ってるわ。うちの子たちも描いてもらいたいな』
『ミサキちゃんのところは、ロシアンブルーだったわね。3人が来たら、描いてくれるか聞いてみましょうね』
『お願いします。もうすぐ妹の誕生日だから、あの子の好きな猫の絵をプレゼントしたいな、って思っているの』
こんなふうに、母さんの店がきっかけで絵の仕事を始めたアーティストは1人や2人ではない。陶芸家の目に留まり、弟子になった人もいる。うちの学校のホームページのイラストを担当している人も、この店での出会いが仕事に結びついたという。
マリコ母さんはいわゆる『世話焼き』というタイプでは、ない。だけど、俺たちみたいな学生や、この店に出入りしている皆といるときの様子を見ているとうまく言えないけど『手仕事を好きな人のことが大好き』なんだな、ということが伝わってくる。
『人は、好きなことにはきちんと向き合うものだ』と俺は思っている。ミサキが10匹のグレーの猫それぞれをちゃんと見わけられるように。母さんが俺たちが、どのクッキーを作ったのかを全部言い当てたのも、俺たちひとりひとりのことを、丁寧に見てくれているからだ。だから、この店では人と手仕事が自然と結びつけられるのかもしれない。やっぱり、うまく言えない。だけど、俺がこの店の空気がとても、好きなことだけは確かだ。
エマが突然、言う。
『フランスに修業に行くなら、フランス語できないとダメだよね? ピエールさんに習おうかなぁ』
そんな計画があったのか。初めて聞いた。キョウコはお父さんのパン屋を継ぐことが決まっている。ヒロキは…キョウコの家に婿入りするのだろうか。ミサキは老舗ホテルにずっと憧れていた。
俺は、まだ誰にも言っていないけれど、マリコ母さんの会社がいいな。そして、23店目の店は、俺にまかせて欲しいと思っている。