物心がついた頃にはもう、サトルとヨシコは俺と行動を共にしていた。長年連れ添った夫婦がよく、お互いを『空気のような存在だ』と言うけれど、妻よりも長い付き合いな訳だ。サトルと2人、閉店後の喫茶店でカウンターを挟んで何も話さずに、コーヒーを片手にモンブランを食べている時間というのも悪くはない。
『このケーキ、美味いよな。タツオもヨシコも口は悪いけど、美味いものを作る腕は確かだよな』
『タツオの腕のおかげで、俺も随分助けられているよ。俺1人だと、お菓子までは手がまわらないからさ』
『ちょうどタツオのケーキ屋がオープンした頃から、だんだんと若い世代が移って来たような気がするんだけど、気のせいか?』
『いや、タツオ夫婦がインターネットでこの町での暮らしを発信しているようだぜ。奥さんが作っている、猫のクリタロウ動画も人気があるみたいだし』
『タツオさまさま、か?』
『そうかもしれないな』
さびれかけていたこの町に、タツオのような若い世代が増え始めて、新しい流れを生み出そうとしている。サトルの息子もこの町に、子どもたちが楽しく暮らせるための拠点を作りたいと言っている。『かっこいいな、おまえ』と褒めると、照れくさそうに『まだ、何をやるかはちゃんと決まってないけどね』と笑った。
『たぶん、音楽に関係したことをやりたいんじゃないかと、俺は見ているよ』
『やっぱり、親父としては心当たりがあるようだな』
『まあ、何となく、かな』
少しの沈黙の後、サトルが棚からブランデーの瓶を出して俺たちの間に置いた。そして、普段は水を入れるグラスに半分ぐらい注いで
『ユウちゃん、飲もうか』
と言った。冷蔵庫からは、サンドイッチ用のスモークサーモンとチーズを出した。途端に、喫茶店が一杯飲み屋になった。
携帯が鳴る。ミヨコがアイドルと一緒に写っている画像を送ってきた。
『ミヨコさんか?』
『ああ。お気に入りのメンバーと写って、大はしゃぎだよ。ほら』
画像をサトルにも見せる。
『アイドルにも引けを取らないぐらいパワフルだよな、ミヨコさんは。感心するよ』
『元気があいつの一番の取り柄だよ。あのアイドルの踊りを全部おぼえて、一緒に踊れるんだからさ。パパ、見て見て、新曲の踊りって、毎回踊って見せるんだよ』
『そんなにいつも見ているなら、ユウちゃんも踊れるだろ?』
『まあ、ちょっとはな』
椅子から立ち上がって、新曲のサビの部分を口ずさむ。ステップを踏んで、腕を大きく前に。俺、わりと上手いかも。
『よっ、ユウちゃん決まってるよ!』
アイドルみたいに投げキスでもしようかと腕をサトルの方に向けようとした時、肩に痛みが。
『いってぇ…』
思わず、しゃがみ込んでしまう。
『おいおい、大丈夫か?』
『ああ、やっぱりミヨコにはかなわない。あいつは大した奴だ。帰ってきたら、たくさん褒めてやろう』
ミヨコとは高校の学校祭で知り合った。中学1年のときには全くモテなかったけど、高校の学校祭ではバンドを組んで歌った。そしてミヨコにだけは、モテた。
引き戸がガラガラと鳴る。振り返らなくてもわかる。ヨシコの開け方だ。同じ引き戸なのに、タツオだと『カラカラ』で、ヨシコだと『ガラガラ』になる。
『おじさん2人でしんみりとしちゃって。お姫さまが来てあげたわよ』
誰が、お姫さまだよ。
『おう、お疲れ。お客さん帰ったのか?』
サトルがお姫さまを、いたわる。
『サトルちゃん、ブランデー私も飲みたいな』
ミヨコはまだ2、3日はコンサートだろう。ということは、ここ2、3日はこの顔ぶれで飲むことになりそうだ。それも悪くはないだろう。