ことのはカフェ

カフェに纏わる由なしごとをそこはかとなく綴ります。

アイドルは誰ですか?

コーヒーは大人が飲む苦いもの、そう思っていた頃、同級生たちは流行りのアイドルの曲を振り付けまで完璧に覚えて楽しそうに歌っていました。一方で、その中には入らずに本を読んでいた友人もいました。

通学途中に行き合うと、よく読みかけの本を見せてくれました。
安吾ちゃんは絶対、おすすめ!面白いの」
あんごちゃん?
だれだろう?

差し出された文庫本は厚切りトースト並のボリューム、表紙には『坂口安吾全集』とありました。
中には眼鏡をかけた男の人が煙草を片手に原稿用紙に向かっている写真が。ちゃん付けで呼ぶ人ではないよなぁ、という印象です。申し訳程度に頁をめくってすぐに返しました。

それでも、会うたびに『安吾ちゃん』の話は繰り返されました。友人にとってはアイドル同様の存在だったのですね。


それから何年も経ち、何気なく立ち寄った本屋でふと『坂口安吾全集』と再会しました。懐かしくなったので、1冊買って帰りました。


身に覚えのない、喫茶店からの招待状を受け取ったことをきっかけに自分のニセモノがあちこちの喫茶店や酒場で『大活躍』をしていることを知った安吾さんは事の次第をたしかめに現場に趨きます。

茶店で俳句を詠み、色紙を書き与えるニセモノ、その筆蹟を見事だと絶賛するホンモノ。
あげくの果てに文学青年たちの親分のように振る舞いだすニセモノ、またあるときは酒場で豪遊するニセモノを『本人よりも余程、羽振りが良い』と笑い飛ばしてしまう安吾さん。


安吾さんが活躍していた昭和の前半は作家の顔が世間に広く知られることが少なかったそうで、そんな時代背景がニセモノたちに活躍の場を与えていたようですね。それにしても、なんともおおらかな話です。
今ならば訴える、訴えないということになりかねないと思うのですが…。

この随筆を読んで、友人が『安吾ちゃん』と呼んでいた理由がわかったような気がしました。


先日、この友人が大きな図書館の司書をしているということを人伝てに聞きました。ぴったりのお仕事で、嬉しくなりました。もう何十年も会っていません。近況を聞きながら、一緒にコーヒーを飲みたい気もします。そして『もしその喫茶店の一番奥のテーブルで眼鏡をかけた男の人が煙草を片手に、原稿用紙を書いては破りしていたら?』と想像してしまうのです。