いつもより早く目が覚めたので、時間に余裕がある。開店まで、コーヒーを飲んでいよう。普段は俺が店に着く頃にはヨシコは仕込みを始めているけど、きょうは俺の方が早かった。
モカの気分だな。たまにはミルクを入れてみようか。かき混ぜないそのままが、俺は好きだ。この仕事を始めてからは、喫茶店に行く機会が減ってしまった。たまには人に淹れてもらったコーヒーが飲みたい気もするけれど、この近くにはうちよりも遅くまで営業しているところがない。
そろそろ、開店時間だ。エプロンを締め直す。
『おはようございます』
引き戸が開いてにこやかな顔を覗かせたのは、タツオの伯父さんだ。横浜で和食の店をしているのだが、改装のために暫く休みにしたらしい。その間、この町にも来てみようという気持ちになったそうで『タツオがいつもお世話になっています』と、俺にまで老舗の羊羹を持ってきてくれた。
『おはようございます。きのうはありがとうございます。タツオくんはもう仕事にかかりましたか?』
『さあ、どうでしょうね。私はあいつのところじゃなく、ホテルに泊まっているんですよ』
『てっきり、タツオくんのところにいらっしゃるものだと…』
『1日や2日なら、それでもいいのかもしれませんが。マドカちゃんに面倒をかけたくありませんし』
そして、少し声を低くして
『タツオは、授業参観に親が来るとやたらと張り切るタイプの子でしたから』
と言って、俺に同意を求めるように微笑んだ。なるほど、わかるような気がする。タツオは伯父さんのことが大好きだから、大はしゃぎしそうだ。
『だから、私が来ていることは知らせていないんですよ』
『タツオくんは、毎日ここにお菓子を届けてくれていますよ。だから、すぐにわかると思いますよ』
『時間は決まっているんですか?』
『午前中は9時に来てくれて、あとはお客さん次第なんです。タツオくんのケーキはこの店でも評判がいいんですよ。特にモンブランが。だから、お昼前に追加することもしょっちゅうありますよ』
伯父さんは時計を見る。
『9時まで、ゆっくりコーヒーをいただきましょう。ホテルのコーヒーより、こちらの方が私の好みなんですよ』
和食の料理人さんにそこまで言っていただけるとは。タツオじゃなくても、大はしゃぎしたい気持ちだ。
伯父さんはトラジャを注文してくれた。背筋がスッと伸びていて、仕立ての良いストライプのシャツを着ている。食べたことはなくても、この人の作る料理は美味しいだろうと簡単に想像がつく。タツオが尊敬する気持ちがよくわかる。
ガラガラと引き戸が開く。
『サトルちゃん、ホット』
ヨシコはカウンターに座っている伯父さんに気づくと、少し改まって
『伯父さま、おはようございます。きのうはどうもありがとうございます』
と、頭を下げた。
ヨシコのところにも、挨拶に行ったのか。丁寧な人だ。
『きのうのおむすび、ホテルで美味しくいただきましたよ。あの梅干しは懐かしい味ですね』
『恐れ入ります。あの梅は友人のお母さんが漬けてくれたものなんです』
ヨシコの辞書に『恐れ入ります』などという言葉があったとは! 伯父さんに感化されたのか? その後も、ヨシコは伯父さんと和やかに話していた。『おにぎり』ではなく『おむすび』と言ってもらえたことが嬉しいようだ。
9時少し前に、伯父さんは店を出た。
『え? じゃあ、タツオくん伯父さまが来ていることを知らないの?』
『どうやら、内緒らしいぜ。タツオたちの普段のペースを乱したくないって。俺だったら、伯父さんに遠慮されたら淋しいけどな』
ヨシコは何かを考えているようだった。そして
『サトルちゃん、ホットおかわり。それから、モンブランある?』
と言った。タツオと伯父さんを会わせる方法を考えているのか、と思った俺はまだまだヨシコのことがわかっていないのかもしれない。