ことのはカフェ

カフェに纏わる由なしごとをそこはかとなく綴ります。

イネコさん 1

重たい木のドアを押すと、ドアベルがやさしい音を立てる。
『いらっしゃい』
ママがアルトの声で迎えてくれる。きょうはまだ、誰も来ていない。ママの声を合図のように猫がカウンターから、するりと現れる。私はカウンターの奥から3番目の席に座る。カウンターの端には花瓶に梅の枝が挿してある。梅の匂いがかすかに漂ってくる。

私の隣の椅子に猫がひょいと、跳び乗る。
『ティピカさん、おはよう』
人さし指をそっと近付けると、猫が鼻を寄せてくれる。猫は挨拶が済むと、またカウンターの後ろに戻っていった。

『ママ、きょうのケーキって何?』
『プラムのケーキよ』
『あ、好きなやつ。じゃあ、それにする。それからコーヒーと』

カウンターしかないこの店では、ママの仕事の流れがよく見える。後ろの棚のキャニスターからコーヒー豆を測って、手動式のミルで挽く。

お湯をそっと注ぐと、コーヒーがふんわりと盛り上がる。いつも、おまんじゅうみたいだなぁ、と思いながら見ている。

プラムのケーキは、かっちりとした四角い積み木のようにカットされていたけれど、バターがほどよく効いたやさしい味わいだった。

ママと初めて会ったときは、エプロンよりもスーツの方が似合いそうだと思った。キャリアウーマンとか、先生とか、そういう感じがした。だけど、ママの淹れるコーヒーを飲んだり、猫と一緒にいるところを見ていると、見た目よりもずっと柔らかいひとなのだと思えてきた。

またドアベルが鳴り、お蕎麦屋さんの奥さんが入ってくる。ティピカさんがしっぽをピンと立てて近寄る。
『ティピちゃん、おはよぉー。きょうも可愛いねぇー。よしよし』
そう言って、ティピカさんの頭を撫でる。

『いらっしゃい。いつもので、いい?』
ママはまた豆を挽く。豆を挽く静かな音が心地よい。ティピカさんが足元からなかなか離れないので、奥さんは椅子に座れずにいる。見かねたママが声をかける。
『ティッティ、もう座っていただきましょうよ』

ティピカさんにはママの言葉がちゃんと通じている。ティピカさんはトコトコと歩いて、今度は梅の枝が挿してある側の椅子にひょいと跳び乗った。そして梅の花をじっと見つめ始めた。


奥さんは私の1つ隣の椅子に座った。コーヒーを差し出すと、ママがこう切り出した。
『おばさん、この間のお話だけど…』
『わかってるわよ、ジュンちゃん。私もね、ダメもとで話してはみるけどってはじめから言っておいたから』
『ごめんなさい』
『気にしない、気にしない。きょうの深煎りモカも美味しいわ。ねえ、ティピちゃん』
ティピカさんは『ニャー』と返事をした。

ママは少しホッとした表情で
『ネコちゃん、その梅ね、あなたのおばあちゃまがくださったの。きれいでしょ? ティピカもすっかり気に入って、毎日ながめているのよ』
と言った。

ネコちゃん、この近所のひとたちは皆、私のことをそう呼ぶ。このあたりはお蕎麦を栽培している農家さんが多い。それなのに、父は私をイネコと名付けた。子どもの頃、何だかお蕎麦に申し訳ないような気がして、自分の名前を隠そうとしていた。見かねた担任の先生がネコちゃんと呼んでくれた。それ以来、この呼び名が定着した。