ことのはカフェ

カフェに纏わる由なしごとをそこはかとなく綴ります。

タケオさん 3

ミユキちゃんの話によると、マリコ母さんは猫をテーマにした刺繍の展覧会を観るために、その町を訪れた。そして、会場になっていた小さなギャラリーの前で、濃いグレーの大きな猫が丸くなって寝ているのを見つけた。マリコ母さんには、その猫が『ごまのおはぎ』のように見えたそうだ。それで、ふとおはぎが食べたくなったらしい。

そこで、展覧会の受付の女性に近くにおはぎを売っている店があるかをたずねた。教えてもらった商店街に行ってみると、行列ができているところがあった。年老いたご夫婦がきりもりしている地元で人気の和菓子屋さんだ。おはぎは週に2回しか作らないので、皆楽しみにしているのだという。

マキさんとは、その行列に並んでいるときに知り合ったそうだ。マリコ母さんが地元の人間ではないとわかると、その和菓子屋さんの使っている材料の特長を農家さんのことまで、丁寧に解説してくれた。そして『この町の宝物をぜひぜひ、食べてみて欲しい』とまで言った。

マリコ母さんも、ものづくりに関わっている人たちが大好きだったが、自分の娘よりも若いマキさんが地元の小さなお店をたいせつに思う気持ちに心を打たれたようだ。そこで、2人は意気投合して連絡先を交換し、それ以来、しょっちゅう電話で話をしたり、時にはマキさんがマリコ母さんの店にお茶を飲みにくる、ということもあった。

それが、6年前の話だ。そして、一昨年のこと、マリコ母さんにマキさんから『和菓子屋が閉店してしまう!』と連絡が入った。マリコ母さんは急いでマキさんの町に駆けつけた。

マキさんは和菓子屋の奥さんに
『おばちゃん、お店、やめないで』
と訴えかけた。奥さんの話ではお店のご主人が腰を痛めてしまい、後継ぎもいないのでこの辺が潮時かと思う、との事だった。

奥さんは、いきなり押しかけた2人を厭な顔ひとつせずに座敷に招き入れ、おまんじゅうとお茶を出してくれた。
『こんなに美味しいあんこは絶対に残さなければなりませんよ。どうか、私にも手伝わせていただけませんか?』
マリコ母さんが頭を下げたとき、座敷の隣の部屋から、濃いグレーの大きな猫がのそのそと入ってきた。そして、マリコ母さんの膝の上に前足をのせた。
『あら、あなた、いつかのごまおはぎちゃんじゃない?』

マリコ母さんは奥さんに初めてこの店を訪れた経緯を話した。奥さんは得意客のマキさんや自分の家の猫と縁のあるマリコ母さんを信頼することにした。そして、女性3人と大きなおはぎを思わせる猫による『和菓子屋再生プロジェクト』が始動することになった。


ミユキちゃんは一息に話すと、冷めたコーヒーをごくごくと飲み干した。
『そうそう、ごまおはぎちゃんの写真あるのよ。ほら』
丸くなって寝ている濃いグレーの猫。顔が見えないので、本当にごまのおはぎのようだ。次の作品づくりのヒントになりそうだ。

『タケちゃん、今、なにかひらめいたでしょ?』
『あ、わかるの?』
『わかるわよ。仕上がったら、見せて。マキちゃん達にも見せたいから。ちなみにね、和菓子屋さんの奥さんはタケちゃんのファンらしいわよ。ママは自分の甥だとは知らせていないみたいだけど』

マリコ母さんのそういうところが、僕は好きだ。ミユキちゃんはよく『マリコのマは巻き込むのマ』と言うけれど、人が困るような巻き込み方は絶対にしていない。

マリコのマは巻き込むのマ、だけどね、マキちゃんの巻き込む力もママに負けていないのよ』
時々、ミユキちゃんには僕の心の声が聞こえているのではないか、と思うことがある。
『どういうこと?』
『お土産にくれた羊羹、作っているのって、マキちゃんの旦那さんなの。それにね、マキちゃんの妹さんはあの喫茶店のインテリアに関わっているのよ。本業は雑貨屋さんなんだけどね』
『類は友を呼ぶ、かな?』
『そうなのよ』

そろそろ、コーヒーをもう一杯飲みたいな、と思っているところにピンク色の髪のスタッフさんが近づいてきた。
『コーヒー、もう一杯飲むわよね?』
やっぱり、ミユキちゃんには僕の心の声が聞こえているのかもしれない。

タケオさん 2

ミユキちゃんは僕のメロンショートケーキをじっと見て
『それも美味しそう。ピーチタルトと半分こずつしようよ』
と言った。

僕は子どもの頃、両親の仕事の都合でミユキちゃんの家や他の親戚の家で過ごす時間の方が多かった。なので、ミユキちゃんと1つの料理を分け合うのは、その頃からの習慣で自然なことだった。
『タケちゃんって、昔からメロン好きよね。ミドリおばちゃんの畑に一緒にメロンの種、植えたよね』
『あれ、近所の野良猫がぐちゃぐちゃに掘って荒らしたんだよ。それで、メロンの大収穫とはならなかったんだよね』
『そうそう。夏休みのおやつは毎日メロンにしよう、って計画してたのよね。あの時はちょっぴり猫を責めたくなったわ』
『でも、ミドリおばちゃんに宥められて、ね』
『おばちゃんの、まあまあ、っていう言葉には不思議な力があるわよね。聞いていると本当に、まあいいか、って思えてくるから』

ミユキちゃんはタルトの上の桃をフォークで口に運びながら、しみじみと言った。子どものいないミドリおばちゃんは、僕たちのことを我が子のようにたいせつにしてくれていた。僕たち、というよりは関わる人たち皆に対して、包み込むような気持ちがあるのかもしれない。

『うちのママも、おばあちゃんに言えないことでも、ミドリおばちゃんには話せたみたい』
『親子だから、余計に話せない、ということもあるかもね。だけど、僕はずっとマリコ母さんはミドリおばちゃんと似ているところがあるような気がしていたよ』
『猫好きなところが?』
『茶化すね、ミユキちゃんは。そうじゃなくてさ。人に対して、包み込む、とでも言うのかな』
『包み込む、か。確かにママも人づきあいは、いいわよね。マリコのマは、巻き込むのマだから』

ミユキちゃんは最近、マリコ母さんの新しい思いつきのためにあちこち駆けまわっていたから、そんなことを言っている。
『そうねえ、2人って、形は同じかも。ただ、ミドリおばちゃんを淡い桃色だとすると、ママがショッキングピンクみたいな』

ショッキングピンク、この例えに思わず笑ってしまう。マリコ母さんのバイタリティーを表現するのにはぴったりだ。さすが、娘。よく見ている。

ミユキちゃんが半分くれたタルトの桃をフォークで2つに割る。メロンに匹敵する瑞々しさだ。ふと、ミユキちゃんが好物の桃を食べ過ぎて、お腹を壊して幼稚園を休んだことを思い出す。だけど、それは黙っていよう。かわりに、こんな質問をする。
『この羊羹のお店がマリコ母さんのお店って、どういうこと? それに、マキさんって?』
『これはね、おはぎが取り持つ縁なのよ』
ミユキちゃんはガラスでできた耐熱カップに入ったコーヒーを置いて話し始めた。

マリコ母さんと若女将のようなマキさん、それに、おはぎ? 一体、どんな関係があるのだろうか。

タケオさん 1

僕が紙袋を差し出すと、ミユキちゃんは目を丸くした。そして中のものを見ると大笑いし始めた。
『ミユキちゃん、声、大きいよ』
『だって、だって』
ミユキちゃんは涙を流して笑い続けている。他のテーブルのお客さんたちが何事だろう、とこちらを見ている。

『だって、ここ、ママの店だもん』
『えっ?!』
今度は僕が、大声になる。また、まわりの視線が突き刺さる。すみません、うるさいですよね。
マリコ母さんの店って、だって、住宅地にある普通のお家のようなところだよ』


このあいだの泊まりがけの講座のあと、受講してくださったカホコさんに『素敵なお店があるんです』と教えていただいたお店だ。そこのお店の羊羹がとても美味しかったのでお土産に、と思ってたくさん買ってきた。

ミユキちゃんとは『いとこ会』と称して毎月1度はお茶をしている。なので、この美味しい羊羹をマリコ母さんとミユキちゃんにも是非、と思って持って来たわけなのだけど…。

『ごめん、ごめん。この羊羹、ママも私も大好きよ。ありがとうね、タケちゃん』
マリコ母さんの店って、どういうこと?』
伯母のマリコは確かに、あちこちの喫茶店のオーナーではある。現在、経営しているのは22店舗だと聞いている。だけど、僕はその全部を把握しているわけではない。

『着物の若女将っぽい女の人、いたでしょう? 私たちよりも、かなり若い感じの』
たしかに、頼んだものを持ってきてくれた女性は着物を着ていた。顔をじろじろと見たわけではないので、年齢まではわからない。ただ、白い小指に嵌められた真珠の指輪が妙に、印象に残っていた。

『彼女ね、ママの友達なのよ。マキちゃんっていうの。私も何回か会っているけど、面白い子よ。三味線がとても上手なのよ』
マリコ母さんの交友関係の広さには、いつも驚かされる。元々が旅行好きで、旅先でいろいろな人たちと出会ってくる。30年以上も前に、外国のカフェで1度だけお茶を一緒に飲んだ左官職人さんとも、いまだに手紙の遣り取りを続けているらしい。

『お待たせしました。ピーチタルトのお客さまぁ』
若女将とは対照的な雰囲気のブルーに髪を染めたスタッフさんだ。まわりの席は若い女性がほとんどで、携帯のカメラでカラフルなパフェやかき氷を撮影している。ここはミユキちゃんが是非、一緒に行きたいと言ったお店だった。

果物を絵の具に、食器をキャンバスに見立てたデザートが若い女性に人気のカフェだそうだ。『カラフル』をテーマにしているからなのか、スタッフさんたちの髪の色も賑やかだ。ピンクにオレンジ、キウイフルーツのような鮮やかなグリーン、そしてアーモンドのような色も。まさか、ここにもマリコ母さんが絡んでいるということはない、だろう。多分。

100本の花束をあなたに

モーニングのお客さんを皆さんお見送りした後、ドアに『本日貸切』の貼り紙を貼る。
テーブルを並べ変えて大きくつなげて、テーブルクロスを掛ける。

『何だか、小学校のお楽しみ会を思い出すわね』
ティッシュで作ったお花とか、紙テープの飾りが似合いそう』
『金の屏風があったらよかったかしら?』
『マサヨさんは大袈裟なことをしたくないから、ここにしたんでしょ?』
『それもそうね』

ミユキさんは、大きなお皿に小さなシュークリームをきれいに並べる。
『これは2組でいいわよね?』
と言って、テーブルの両端にそれぞれ置く。

マサヨさんがキャリーバッグの中で大人しくしている猫ちゃんを連れて入ってきた。
『きょうはお世話になります』
『こちらこそ、よろしくお願いします』
『あら? おばあちゃん、一緒じゃないの?』

『それがね…』
マサヨさんはにやりとして続けた。
『うちのばあちゃんの施設のスタッフさんがね、タケオ先生のファンなのよ。先生が来るなら私が付き添います、って言って。きょうは猫も連れてきたから、私も助かったけど』

ミユキさんと私は顔を見合わせて笑った。タケオさんは相変わらずモテモテだな。ミユキさんがキャリーバッグを覗き込む。
『この子? 噂のかぎしっぽちゃん。こんにちは。何ていうお名前ですか? 私はミユキちゃんよ。よろしくね』
『にゃあー』
『フクスケです。文房具屋の営業部長です。以後、お見知りおきを』
マサヨさんが通訳する。

『フクスケさん、まだ出さない方がいいわよね? おばあちゃん来てからにしようか?』
『そうね。うちの店だと、もう私より偉くなってしまっているけど、初めての場所だと緊張するから。ね、フクちゃん。もうすぐ、ばあちゃん来るからね』
『にゃあー』

フクスケさんは、よく鳴く。前にチサトさんの保護猫施設から紹介してもらった『カフェオレ色のかぎしっぽちゃん』だ。今では、すっかり文房具屋さんの人気者だ。鳴き声が『いらっしゃいませ』と言っているようだ。

フクスケさんが来てからはマサヨさんのおばあちゃんも少しずつ元気になってきて、施設からマサヨさんの家に外泊したりもできるようになった。これもきっと『かぎしっぽ効果』ね。そして、きょうはそのおばあちゃん、モモヨさんの100歳のお誕生日会をこの店でやることに。

栞ちゃん、何か手伝えることある?』
『いいわよ、ミユキさんもいるし。フクスケさんと座って待ってて』
マサヨさんもお店の人なので、じっとしているよりは動いていたいのよね。

外で、車が止まる音がする。マサヨさんが出迎える。おばあちゃんが施設のスタッフさんの押す車椅子に乗って入ってくる。
『ようこそ、いらっしゃいませ。きょうはお誕生日おめでとうございます』
おばあちゃんはにこやかに
『お世話さまでございます』
と挨拶をしてくれた。


おばあちゃんに真ん中に座っていただいて、隣に施設のスタッフのナツミさん。反対側の隣にはマサヨさん。フクスケさんはおばあちゃんの膝の上。カフェオレ色のかぎしっぽをゆらゆらとさせている。他には近所の書道教室の生徒さんたちや商店街の皆さんがお祝いに駆けつけた。

アベルがカラン、コロンと鳴り、大きなピンク色のバラの花束を抱えたタケオさんが入って来た。
ナツミさんは目をハートマークにしている。
『先生、遅い、遅い!』
と、酒屋さんのお父さん。
『すみません、遅くなりました。このお花は商店街の皆さんからのお気持ちです。僕が代表して、お届けにうかがいました』
『よっ、タケちゃん。かっこいいよ』
これは八百屋さんのお父さん。

『モモヨさん、100歳おめでとうございます。これからも、ずっと、ずっとお元気でいらしてください。心を込めて100本のバラの花を』
お客さんたちは皆、口々に『おめでとう』『お元気にね』など言っている。

おばあちゃんは
『ありがとうございます、ありがとうございます』と何度もお辞儀をしている。マサヨさんは小さなタオルで、そっと目元を押さえる。

カラン、コロンとまたドアベルが鳴る。ランドセルを背負った小学生の男の子が3人で入って来て
『おばあちゃん、100歳おめでとうございます』と寄せ書きを渡している。モモヨさんの目には、うっすらと涙が浮かんでいる。皺がたくさんの手で色紙を受け取る。そして、男の子たちの手を握って
『どうもありがとう。あなたたちも元気に、お友達と仲良くね』
と言葉をかけていた。男の子たちは少し、照れくさそうにしている。

マサヨさんが男の子たちにも料理をすすめる。『この、お芋のサラダのサンドイッチも美味しいよ。食べてごらん』
お芋のサラダはモモヨさんが、よく晩ごはんに作ってくれたという話を聞いていた。モモヨさんも美味しそうに食べてくれている。

ナツミさんが言う。
『フクスケちゃんと会ってから、モモヨさん、どんどん元気になってきているんですよ。たくさん笑うようになりましたし』
やっぱり、猫ちゃんには不思議な癒しの力があるのかもしれないわ。

カウンターの後ろに座っているフクスケさんを発見。ランチメニューのお味噌汁用の煮干しをあげてみる。フクスケさんは美味しそうに煮干しを食べている。おかわり、いかがですか?
『にゃあー』
どんどん、お食べー。

栞ちゃん
振り向くと、後ろにはタケオさんが。
『もしかして、フクスケくんをこの店にスカウトしようとしてる?』
タケオさん、痛いところを。
ミユキさんも隣で
『確かにうちは猫グッズだらけだけど、看板猫は禁止よぉー』 
と、笑っている。

わかってるわよ。フクスケさんがあまりに可愛らしいから、つい。だけど、モモヨさんの元気のもとを奪ったりなんて、そんな阿漕な真似は出来ないわ。私の葛藤を知る由もないフクスケさんは、煮干しを平らげると、さっさとモモヨさんのところに戻っていった。マサヨさんは涼しい顔でコーヒーを飲んでいた。

カホコさん 4

先生は2杯目も『黒松ブレンド』にした。どんな味か気になるので、私も同じものにした。妹にだったら『ひとくち頂戴』と言えるのだけれどね。

運ばれてきてすぐに、先生はコーヒーのカップを手にとった。そして、ひとくち飲んで美味しそうに微笑んだ。先生をこんな表情にさせるのは、どんなコーヒーなのかしら? 私も早速、ひとくち。
『熱い!』
思わず、大声になる。私、自分で猫舌宣言していた癖に。こんな静かなお店で、恥ずかしい。かっこつけたいのに、かっこわるいことばかりだわ。

先生は私の大声に一瞬おどろいたようだったけれど、すぐに気を取り直して
『カホコさん、大丈夫? 吾輩も猫舌なんだにゃ。仲間だにゃ。猫舌同盟にゃ!』
と、声色を変えて言った。先生の指には毛糸で出来た水色の猫の指人形がはめられていた。先生は指をひょこひょこ動かしながら
『このコーヒーは冷めても美味しいから、ゆっくりゆっくり、飲もうにゃ』

私は一瞬、呆気にとられたけれど、静かな語り口の先生からこんな声が出ることがおかしくて、笑ってしまった。
『猫さん、心配してくれてありがとう。もう、大丈夫よ』
『それは、よかったにゃ。吾輩もホッとしたにゃ』
先生は私のお行儀が悪いのを気にする風もなく、にこにこしたままだった。

『その猫さんのお人形、可愛いですね。先生がお作りになったんですか?』
『これは、さっきお話しした祖母のお姉さんがずっと昔に作ってくれたものなんです。泊まりがけの講座のときは、少し緊張してしまうので、お守りのようにポケットに入れてくるんですよ』
と、少し照れくさそうに話してくれた。

『先生が緊張するなんて、意外です』
『鉄のような心のおじさんだと思っていましたか?』
『いえ、そういう意味ではなくて…』
戸惑うと、またあのふてぶてしい『ユキ君』の顔が視界に。『そういう意味じゃないなら、どういう意味だ? お前さんはタケオ先生のことをどんな風に思っているんだね? 言ってみろよ』うるさいなぁ、ユキ君は。

『先生のようなプロの方でも、という意味です』
少し間を置いてから、先生は答えた。
『プロ、ですか。僕はまだまだ見習い小僧のようだと思っていますよ』
全国にファンがいて、編み物の本もたくさん出していて、講座を開けばいつも満員なのに、見習い小僧だなんて。

先生のお仕事の原点には、常にお祖母さんのお姉さんである『ミドリさん』がいるという。
忙しかったご両親の代わりに幼かった先生の面倒をよく、見てくれていて、自分の家で過ごす時間よりも長かったらしい。

ある日、ミドリさんのお気に入りの水色のセーターを猫が引っ掻いて、ボロボロにしてしまったという。先生は猫を叱ろうとしたが、ミドリさんは
『猫のすることは叱らなくてもいいのよ』と柔らかく宥めた。

その後、セーターは解かれて、タケオ先生の帽子とこの猫の指人形とミドリさんのマフラーに生まれ変わった。
『ほら、猫のおかげで2人が寒い思いをしなくても、よくなったでしょう? 毛糸って、何度でも編みなおせるものなのよ、大丈夫、大丈夫』

寒い思いをしなくても済んだのは、幼い頃のタケオ先生とミドリさんだけではない。水色の猫さんの指人形のおかげで、私の失態も和ませてもらえたのだから。

また、ユキ君と目が合った。ユキ君は神妙な面持ちになっていた。私がニヤリとすると、きまり悪そうに、目をそらした。

ミドリさんのように鷹揚な人は、縺れてしまった気持ちもボロボロのセーターのように、解いて編みなおしてくれるものなのかもしれない。タケオ先生にも、そういう要素があると、私は思っている。

先生の次の講座も、楽しみだ。そのときもまた、このお店に一緒に来られるといいな。今回は思わぬ合いの手も入ったけれどね。私はユキ君の方をチラリと見る。『あなたも、早くお家に戻りなさいよ』

私とユキ君の心の中でのお喋りなど、知る筈もない先生はゆったりとコーヒーを飲んでいる。先生のその様子に、まだ会ったことのないミドリさんが重なって見えた。

カホコさん 3

タケオ先生が、美しい羊羹を口に運ぶ様子を眺める。先生は本当に所作がきれい。私もつられて、いつもよりもあんぱんを細かくちぎる。
『小豆とコーヒーって、意外と合うものですね。マメなもの同士、相性がいいのかな』

小豆のお豆とコーヒーのお豆をかけた駄洒落。お茶席にいる時のような仕草で、ふと先生が呟いた。それを聞いて私もひとつの駄洒落を思い出したので、言ってみる。
『羊羹はよう嚙んで食べにゃあ、いかんよう』

タケオ先生が楽しそうに笑う。
『カホコさん、それ面白いですね』
『これは、小学校のときの教頭先生がよく言っていた駄洒落なんです。お家に遊びに行くと、いつも羊羹をご馳走してくれて』


教頭先生のお家には陽当たりのいい縁側があって、いつもそこに座って羊羹とほうじ茶をいただいていた。羊羹は教頭先生の大好物で、生徒たちが遊びに行くと上機嫌で奥さんに
『母さんや、羊羹を持ってきておくれ』
と言って、お鮨屋さんのようにお魚の漢字がたくさん書かれた湯のみに入ったほうじ茶と一緒に、羊羹を頬張っていた。そんな思い出もあるので、私の中では羊羹は豪快なイメージの食べ物だった。だから、このお店でタケオ先生の羊羹を見るまでは『陰翳礼讃』の羊羹の箇所がずっと腑に落ちなかったのだ。

このぐらいの時期だと、教頭先生のお庭には秋海棠の花が咲いていた。

『今回、教えてくださった作品は秋海棠がモチーフだとおっしゃっていましたね。先生は秋海棠がお好きなんですか?』
『僕が、というよりは僕に編み物を初めて教えてくれた祖母のお姉さんの好きな花なんです』

先生はお家の事情で、子どもの頃はよくお祖母さんのお姉さんのお宅で過ごしたそうだ。そのお庭には、よく手入れされた秋海棠がたくさん咲いていたという。

『今回の作品は、小さく編めば卓上のマットにもなりますし、大きく編んで、ストールにしても楽しめますよ。是非、試してみてください。講座では木綿の糸を使っていただきましたけど、麻で編んでも素敵ですよ』

作品の解説をしてくれる先生の中に、一生懸命に毛糸を編んでいる少年の姿が重なった。先生の話をもっと、聞いていたい。
『先生、コーヒーをもう1杯いかがですか?』
『そうですね。いただきましょうか』

カホコさん 2

猫の貼り紙に見入っている先生の後ろ姿を、眺める。背筋がすらりと伸びていて、それでいながら柔和さも感じさせるような。

迷子になってしまった猫を見つけるためのポスターなので、目立たないと意味がない。だけど、せめてあのオムライスのような色使いではなくて、えび天丼ぐらいの色合いだったら、この壁にもうまく馴染んでいただろうな。

先生が戻ってきた。
『やっぱり、そうでした。あの無愛想な顔つきが、猫好きにはたまらないようですね。僕の友だちにもユキ君ファンがいますよ。早く見つかるといいですね』

茶色のシマシマの猫だけど、ユキっていう名前なのね。真っ白な猫みたいな名前だ。私はどちらかというと犬の方が好きなので、睨みつけるような顔をした猫よりも、尻尾を勢いよく振ってじゃれついてくるわんこ達の方が率直に可愛く思える。

先生が注文した羊羹と、私のあんぱんがコーヒーと一緒に運ばれてきた。
黒い漆塗りのお皿に載った羊羹を見て、思わず
『きれい』とつぶやく。

先生はにこりとして言った。
『やっぱり、思ったとおりでした。照明を落としているこのお店なら、絶対に羊羹の美しさが引き立つだろうな、と。陰翳礼讃の文章を思い出しますね』

『陰翳礼讃』の中の羊羹の話。
漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさをふくんでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。

先生が言っているのは、この箇所のことだろう。
私もひとりでこのお店に来るときには鞄に文庫版の『陰翳礼讃』を入れてくる。先生の口から同じ本の名前が聞けて嬉しい。

『先生も、谷崎潤一郎をお読みになるんですね』
『先生も、とおっしゃるということは、カホコさんも谷崎先生ファンなのでしょうね』
『はい、特に陰翳礼讃はよく読みます』
私は心の中で『そして、タケオ先生のファンでもありますよ』とつけ加えた。

私のあんぱんは朱色の漆塗りのお皿に載っていて、千鳥が金色で描かれていた。先生の羊羹のお皿と色違いだ。千鳥の文様は大抵は2羽で波の上を飛ぶ姿が描かれている。それには『2人で荒波を一緒に乗り越えていける強い絆を結ぶ』という意味がこめられているのだ、と聞いたことがある。強い絆、先生との間にできたらいいな。

壁のポスターの猫が、また睨みつける。『俺様の魅力がわからない奴に、タケオ先生は似合わないぜ』私は猫に言い返す。『私たちには、谷崎先生という強い味方がいるのよ』猫は負けていない。『お前さんは谷崎先生が大の猫好きだと知らないのか?』『だったら、何よ。あなたこそ、飼い主さんを心配させないで、早くお家に戻りなさいよ』猫が少し怯む。

『カホコさん、カホコさん』
先生の声で、我に返る。
『カホコさん、コーヒーが冷めないうちにいただきましょう』
『あ、私、猫舌なんです』
ポスターの中のユキ君がニヤリとする。

今のところ、引き分けだな。